塾生諸君に述べておきたい。「疑」というものは、結局のところ、「信」に勝つことは出来ないのである。しかし、そのことは、盲目的に、諸々の「悪」に対して目を閉じるということではない。一見「悪」とみえしものをも積極的に観じ、建設的に観じ、肯定的に観じ、「圧倒的なる善」へと転じてゆく「光明信念」にこそ本質があるのである。
その意味において、あらゆるものを、「天の配材」として、感謝の心をもって尊重して、積極的に活かしてゆくということは大切である。さすれば、すべてのものが本来「善」であり、「善」こそが実在であり、天の御心であるから、あらゆるものの中に「善」が顕現してゆくのである。それ故に、真なる「善一元」の神性論、仏性論、理性論、良心論、誠論は、本来「性善説」も「性悪説」も、ある面において肯定しながら、それらを超越した「善一元」の実在論、イデア論、理念論を展開しているものなのである。
ありのままの現実をありのままの現実として、「リアリズム」の精神をもって観じながら、同時に、その中に、「善一元」の「かくあるべし」の「イデアリズム」(理念尊重主義)の精神をもって観じてゆくことこそ、真なる実在論哲学の本質であり、真なる観念論哲学の本質であり、真なる理念現実論哲学の本質なのである。
このような「善一元」の観点に立脚して、天を信じ、人々を信じ、自己を信じ、「批判的実在論」哲学の具体化としての理念評論、光明評論、志評論の見地から、真なる「実在論」を、健全に、柔軟に「実証」してゆけば、そこから、真なる「理念教育」も、「理念経営」も、「理念政治」も、「理念科学」も、「理念学術体系」も、「大器」として醸成されてゆくといえるのである。
真に「信(トラスト)なくば立たず」の根本精神に立脚して、限りなく広い王道を歩みつづけ、限りなく広い光ある大道を歩みつづけてゆけば、あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。