「叡智メッセージ」
Japanese Dream Realization





「理念的光明と地上的現象界の生存の本義について」 



  「理性的実存」としての人間にとって、地上的生存の本義について探究してゆきたいと思う。まず、地上生活の中においては、衣食住をはじめとして、現象界において、現象的実存としての生を中心に経済生活が営まれてゆく傾向があるといえよう。しかし、現象的実存としての生を中心に考えてゆくだけでは、真なる経済生活を営んでゆくことにはならない。経済生活を通して、その中に光明を掲げてゆくことこそ、真なる経済生活の根本であり、人間が地上的生存だけではなく、同時に、理念的生存をなしてゆくことこそが、真なる人生の目的であり、人間の天命であるといえるのである。

 故に、理念的生存を常に探究してゆくことこそ、真に、「善く生きる」ことを探究し、実践しつづけてゆくことであって、理念的生存を中軸にして、経済活動をはじめとする地上的生存の本質を解明してゆくことこそ、人間の根本命題であるといえる。

 その意味において、地上的生活は、そのまま天上的生活であり、天上的生活は、そのまま地上的生活であり、両者を全く分離して考えてゆくことは、人間観、世界観としては不充分であるといえるのである。故に、地上に生存しながら、同時に、天上的生を全うしつづけてゆくことこそ、真なる哲学の目的であり、宗教や芸術等の文化の目的であるといえるのである。

 そして、地上的生存の内に、天上的生存としての光明を掲げてゆくということは、結果的に地上的執われとしての、自我我欲を一つ一つ取り除き、仏教用語でいえば「解脱」してゆくということに相当するのである。それこそ、真なる「自由」の精神の顕れであり、「叡智的自由」「理念的自由」「光明的自由」の精神の顕れであるといえるのである。

 その意味において、プラトンのいう、イデア界と現象界(地上界)の関係の内において、「善く生きる」生存のあり方を探究してゆくことや、カントのいう叡智界と現象界(地上界)の関係の内において、「人格」的生存のあり方を探究してゆくことは、地上的生存の本義を探究してゆく上で、最も肝要なことであるといえるのである。基本的に哲学的営みの本義とは地上的現象界に生きながら、理念(イデア)的実存としての生を、いかに全うしてゆくことが出来るかということにあるのである。哲学的営みが無ければ、あらゆる生ははかないものとなり、逆に哲学的営みに裏うちされてゆけば、あらゆる生命の営みは、永遠普遍の光明を放ってゆくことになるのである。この理念的光明こそ、真に、「善く生きる」ことの証であり、理念的光明を地上的生存の内において解き放ってゆくことこそ、「一大光明芸術」の舞台としての現象的生存の本義であるといえるのである。

 そして、現象的生存の内において、理念的光明を、真に掲げられた時空だけが、真なる珠石の宝石として、人間の魂の記録に遺り、全人類の魂の記録に遺り、真なる文化遺産となってゆくといえるのである。

 故に、地上的生存において、地上的なるものを一つの形式として尊重し、肯定しながらも、その形式の内において、解き放つべき理念的光明を、真なる生命の光明として、常に着眼し、人生観、世界観の中軸にしてゆけば、真なる文化的生存としての人間の尊厳が証されてゆくといえるのであり、人間の尊厳がそのまま国家の尊厳となり、地球という星の尊厳となってゆくのである。

 真なる文化的生存を現象界において、真に解き放つことによって、真なる「魂の自由」を獲得し、「魂の自由」の王国を持ちつづけてゆけば、そこから、真なる「理念的自己」としての「大いなる夢」の実現が始まってゆき、真なる「理性的自己」の本性を「個性的天分」として伸ばし育みながら、天上的生(永遠普遍の生命)を地上的なものの内に、天来の栄光として光り輝かせてゆくことが出来るといえるのである。

 真なる「理念的自己」を探究し、実現成就しつづけてゆけば、あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである。



〔理念光明祈念歌〕
 
大宇宙
 理法
 心の内にあり
  永遠の自己
    生命の
    自由
(貴)           .




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