「叡智メッセージ」
Japanese Dream Realization





「和歌とロゴス性について」

〜「理念」的象徴表現の真義とは何か〜



  「哲学的真理」の観点から、「和歌とロゴス性」について探究してゆきたい。

 「理念」とは、本来「ロゴス」である。故に、「永遠普遍」の「真理」たりえるのである。かのソクラテス、プラトン、アリストテレス以前の時代においては、ヘラクレイトス流の「無常観」と、諸々のソフィスト流の「価値相対観」が主流を成しており、「無常」の中にあって「変転」することのないもの、即ち「理念」(イデア)の実在というものが、実質的に否定されており、非常に底の浅い「価値相対観」に基づく、ソフィスト達の「イデオロギー的言論」というものが横行していたといえるのである。

 現代社会においても、「価値相対観」に基づく「無常」な言論が横行しているし、その中にも、それぞれに「一片の理」は実在するけれども、全き「理念」そのものを「真理」そのものとして「理念言論」されている方は、ほとんどおられないというのが「現実」である。故に、本当の「正しさ」や「正義」というものが、極めて軽薄なイデオロギー的「手段」のために使用されているといえるのであり、その「概念」の内奥を深く「観」ずることなく、表面的なイデオロギー的「概念」に酔っているだけのような「言論」と「世論」が横行しているといえるのである。

 本来、「自由」であっても、「平等」であっても、「博愛」であっても、日本国の「天皇」であっても、「グローバリズム」であっても、「大和の哲学」であっても、もっと奥の深いものであるといえるのである。これらの諸「概念」の奥には、すべて「理念的生命」が活き活きと「実在」しているのである。しかし、本物の「理性の輝き」をもって「観」じてゆかなければ、その「真姿」を「観」ることも出来ず、表面的な底の浅い矛盾対立抗争を招いてしまうのである。

 これは、単なる「理性の輝き」の不在であり、真なる「哲学者」の不在であり、真なる「理念」の不在から生じている必然的現象であるといえるのである。故に、「対処療法」ではなく「根本治療」してゆこうとするならば、根源的な「哲学的課題」から論じてゆかなくては、真に大成した「理念国家」が創成されてゆくとはいえないのである。

 「和歌」というものも、本来「ロゴス」そのものである。「禅」において、「一行」の「言霊」の中に、大宇宙、大自然の「理法」が「ロゴス」として秘められているように、「和歌」の中には、本来「言霊」が実在し、大宇宙、大自然の「理法」が「ロゴス」として秘められているものなのである。故に、その「ロゴス」によって、天地人が真に「鳴動」してゆくのである。これを、「真理」性のある和歌、「ロゴス」性のある和歌、「理念和歌」と位置づけてよいであろう。

 かの西行や松尾芭蕉やゲーテ等が「詩」の中に探究されたものは、「ロゴス」性そのものなのである。「絶対精神」たる「理念」は、哲学の中だけでなく、宗教の中にも、芸術の中にも宿っているべきものであり、本来、「理念」性のない文学や芸術というものは、「古典的価値」が非常に薄いものであるともいえるのである。

 かのイエス・キリストの「言霊」は、すべて「詩」でありながら、「ロゴス」であり、その中に、永遠普遍の「理念」性が秘められているであろう。かの臨済や、無門や、ルソーや、エマソンや、西田幾多郎等の「言霊」は、すべて、「詩」でありながら「ロゴス」であり、その中に「理念」性が秘められいるであろう。これこそ、真に「生命」を照らす「光明」そのものである。永遠普遍の「理念」そのものである。「生命」の根源的実在そのものである。「天の摂理」そのものである。

 人間とは、本来「理念的実存」であり、「理念的実存」であることが、他の動物と区別される点である。故に、真なる「理念的実存」たる「人格」の証明として、「理念」のある真の哲学、真の宗教、真の芸術の「真贋」を見極め、真なる「正しさ」と、真なる「正義」と、真なる「真理」そのものを「如実知見」し、是々非々に論じてゆこうではないか。「真」なるものを「真」なるものとし、「偽」なるものを「偽」なるものとし、「真理」を証してこうではないか。

 この高度な知的作業を、本来の「理念の革命」というのであり、「光ある時に光の内を歩め」というのである。「光」とは、「理念」であり、「ロゴス」であり、「真理」であり、「永遠普遍の実在」であり、「時代精神」であり、精神の「太陽」である。故に、真なる「大和」の哲学の象徴たる「和歌」の中に、奥深い「理念」性、「ロゴス」性が探究されるのは、本来当然のことである。そうでなければ、「絶対精神」の顕現として、真なる「古典的芸術」として成立しないからである。

 「ロゴス」性のある「和歌」こそ、真なる歴史の風雪に耐えうる「理念和歌」である。たとえ直接的に「概念」で述べられていなくとも、「象徴」的表現によって、真なる「ロゴス」性が「発見」されたならば、それこそ、全人類史上の真なる「芸術的古典」であると同時に、「哲学的宗教的古典」と成りうるものであろう。

 「和歌」という一大伝統文化の中に、真なる「理念」(ロゴス)を、優れた「象徴」的表現をもって顕現させてゆけば、かつてのゲーテやエマソンやルソー等が真に成功した一大「理念」文学ルネサンスが、「和歌」の中にも真に顕現し、「西行」「芭蕉」以来の、さらには、それをも超える一大光明ルネサンス運動が、「和歌」を通して顕現し、「新時代」の「絶対精神」そのものが、「和歌」を通して真に「天孫降臨」し、諸神、諸仏、諸理念(イデア)と成って、真に「生命の鳴動」を成してゆくことであろう。

 そこにこそ、新生日本ルネサンス運動、新生地球ルネサンス運動の運命の開拓を成してゆく真なる「鍵」が実在しているのである。真に「光ある時に光の内を歩め」「光を掲げよ」「革命の時期は来た」。理念和歌繁栄大革命の「新時代」は、既に開闢されていたのである。あらゆる面において、すべては善くなってゆくしかないのである




〔叡智光明祈念歌〕
 理念
 川
 ロゴス
  の
  流れ
 麗しく
若鮎
  泳ぐ
絶対
 の
 天
(貴)    




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