「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「時間空間と絶対無について」
〜多次元世界の源〜




JDR総合研究所 代表
天川貴之




 西田哲学における「絶対無」とは、神のあらゆる創造の源でもある。故に、ここから、各次元世界や、時間も空間も創造されてゆくのである。その意味で、「創造的無」である。

 この「絶対無」の自己限定、すなわち、「絶対無」の分化こそが、高次元存在から低次元存在までのあらゆる次元の存在の創造の本質なのである。

 各次元世界にも、それぞれの時間と空間があるけれども、ここでは、主として、この地上(三次元世界)の時間と空間を中心に考えてみる。

 この時間軸と空間軸の交わる中心(ゼロ)の原点に立つこととは、ありとしあらゆる地上的現象の中で、時間における「諸行無常」と、空間における「諸法無我」の自覚を悟ることである。

 それはまた、現象に執われない永遠の生命の自覚を得ることであり、涅槃の境地に成ることである。これは、地上的現象の時間空間から無執着になった解脱の境地である。

 この三次元世界より上の高次元世界は様々にあるが、その全ての源にあるのが、「絶対無」たる神の意識である。こうした神の意識と合一することを、如来の悟りと云う。それは、絶対無そのものの意識になることでもある。それはまた、絶対無というものをどこまでも深く思索していった先の究極の悟りと云うことも出来る。

 この「絶対無」は、本来、この宇宙の本体である。こうした「絶対無」なる無から、全てを包み込む無から、全てのものは生まれたと言えるのである。その意味で、ヘーゲルの云う所の「絶対精神の自己展開」と軌を一にするとも言えるであろう。

 時間空間というものは、その中心を地上的に表現するために、地上(三次元世界)の時間軸と空間軸を十字に取るのである。この地上の時間空間、すなわち、三次元・四次元の創造の源も、当然ながら、「絶対無」であると言えるのである。

 この三次元の現象世界を超えて、さらに四次元・五次元以降の実相世界、イデア世界に参入することを、「絶対無の場所に立つ」と云うのである。三次元現象世界の時間が生じる以前の立場、空間が生じる以前の立場に立つと云うのである。これを、時間空間の座標軸の中心のゼロ、すなわち、「有無を超えた絶対無の場所に立つ」と云うのである。これが不動の原点である。

 その境地のことを、「現象世界にあって現象世界にあらず、イデア人間である」と云うのである。「涅槃の境地に入る」と云うのである。

 そして、イデアに到る高次元までは無数次元があるのであり、その全ての次元の源として、「絶対無」があるのである。それは、決して、一次元の下の「ゼロ次元」という所に絶対無があるのではなくて、全ての次元の頂点(根底)に絶対無はあるのであり、あらゆる高次元世界の源に位置するものである。

 その意味において、「ゼロ」という数字に、あまり執われなくてもよいのである。従って、絶対無を数学的に表現した所の「ゼロ」とは、一次元の下の「ゼロ次元」ではなく、全ての高次元世界の根源(根底)にある所の「絶対ゼロ次元」のことを指すのである。

 このように、あらゆる次元世界や時間や空間は、全て、この「絶対無」を源とし、そこから創造されてゆくのである。

 これを「絶対者」と述べる哲学者もいるであろう。「根本神」や「根本仏」と言い換える宗教家もいるであろう。すなわち、宗教的に云う所の宇宙の根本神・根本仏こそ、絶対無の立場の本質なのである。この宇宙の根本神・根本仏の立場を根底に考えるからこそ、全ての高次元世界の時間と空間が、そこから生まれるのである。

 仏教で云われる所の「諸行無常」の時間、「諸法無我」の空間というのは、主として、地上の現象世界(三次元世界)の時間空間ことである。

 これに対して、絶対無のゼロ(無)の立場に立つことによって、地上の全ての時間と空間の源に立つことが出来るのである。未だ顕われていない全ての時間を包み、未だ顕われていない全ての空間を包み、全ての全ての源としての中心点のゼロの無の位置に立つのである。

 ちなみに、プラトンも、この「諸行無常・諸法無我」の説を、「万物は流転する」というヘラクレイトスの説より導き、永遠の神性仏性、永遠の神仏、理念、イデアという説を、エレア学派やピタゴラス学派から受け継いで、この両者を止揚して、「イデア説」を打ち立てたと言えるのである。

 『理念哲学講義録』の「時空と絶対無」で述べられているのも、時間と空間の源にあるのは、この「絶対無」という無の意識であるということである。この絶対無という神の意識が全ての時間と空間を創っており、あらゆる次元も、この絶対無という神から分化発展したものであるということである。

 あらゆる時間の内に実在し、あらゆる空間の内に実在して、なおかつ、あらゆる時空を超えて、あらゆる時空をその根底において支える実在こそが、「絶対無」の本質である。この「絶対無」を分析し、思索してゆくことこそ、真なる哲学者の究極の使命であり、その始まりにして、終局であるとも言えよう。

 「無一物中無尽蔵」と云うが、「絶対無」の中に、全ての善きものが潜在してあるのである。そして、それが実現成就してゆくのである。

 このように、「無」の関門というものは、時間の本質を道破することであり、空間の本質を道破することであり、高次元世界の源(根底)を道破することなのである。





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