「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「ニーチェ哲学の問題提起とエマソンの自己信頼について」



JDR総合研究所 代表
天川貴之




 人間というものは、理想像を求めるものである。その最たるものが神である。

 キリスト教の神は、弱き者の、迫害され処刑者であった者の復活であり、反抗であり、反逆であり、ローマ帝国における革命政権の世俗的樹立であった。

 エマソンはニーチェにとって座右の書であったが、このエマソンの「自己信頼」こそが、現代的、新時代的宗教哲学なのである。その「森の生活」における思索は、新時代の静的瞑想の知的生産そのものである。

 人間というものは、自分自身の外に、神仏を求めすぎてはならないのである。あくまでも、自分自身の内に投影される理想像、偉人達をこそ理想にするにとどめ、その人々と自らの心が一つであり、分身である、自分も偉人である、天才であるという自覚を持たなくてはならないのである。

 超人思想とは、克己的自己実現である。それは、自助努力を通じて自らの求める理想を自由自在に自己実現してゆくことであり、自己の人生を導く経営理念とは、自己の哲学であるべきであり、自己自身によって考えられた思索(哲学)であるべきものなのである。

 こうした自らの思索によって、自ら自身によって「自律」することこそ、カント哲学の本心、本質であり、近代哲学の柱である。

 ニーチェの説く超人思想とは、天才教育と同じ思想である。自己によって、自己を超えて、超人、神人になってゆくことである。その本質は、神我一如、仏我一如にあると言ってもよいのである。

 「一如」になっているということは、もはや、外なる神も仏も要らない、ということでもあるのである。自分自身が、神仏の実在精神そのものなのである。

 このような真なる自己信頼のある者こそが、真に他者を生かし、愛することも、育て導くことも出来るのである。

 真なる愛とは、決して安っぽい感傷ではない。また、上から目線の同情でもない。また、行いの伴わない愛の言葉でもないのである。

 しかし、確かに、愛の言葉によって人は魂が慰められ、救われるのも真実だから、自分自身の手で、様々な愛の言葉、愛の聖書を数多く創っておけばよいのである。まず何よりも、自分自身を慰め、楽しませるためにである。

 真に自己を愛しきることが出来た人の周囲は、自然に幸せになってゆくのである。何故なら、その方の内なる愛の光が自然に周囲を感化するからである。智慧の光が自然に周囲を感化するからである。

 故に、まず、徹底的に自分自身を許すことである。和解することである。その意味で、「解脱」することである。

 真に「解脱」すれば、あなたは涅槃の法悦に包まれるであろう。こうした真なる涅槃の法悦に包まれて生きてゆくことこそが、この世とあの世を貫く永遠の幸福となるのである。

 しかしながら、この世で真に幸せになれないのに、あの世に幸せを求めてはならない。あくまでも、この世の中に幸せを発見して、真に幸せになってゆかなくてはならない。

 そのために、音楽であっても、一つの幸福境である。光の音楽は、天上の音楽は、いくらでもある。それらは、あなたを光へと自由自在に導くであろう。また、地上的なロックやジャズやポップスや演歌などもある。

 これらの歌によって、人は真に幸せに生きるのである。歌によって、幸せを得てゆけばよいのである。それも立派な幸福の原理である。音楽を通して様々な境地を切り拓いてゆくことは、とても霊的なことでもあり、見性体験でもある。

 また、自らが好きなことが哲学であるならば、どのような哲学的課題であっても、好き嫌いせずに取り組むことである。

 ニーチェに問題提起されたことや、マルクスに問題提起されたことや、フロイトに問題提起されたことについても、たとえ、それらが天上的でないと云われても、敢えて問題意識を持って探究すべきである。

 それらは、現代の時代精神の学問であり、哲学思想であるからである。それらは、人類の永遠の課題への問題提起に満ちているものだからである。

 すべてを恐れず、すべてから逃げず、すべてを真正面から受けとめ、面白がり、醍醐味を知り、学問や哲学思想の法悦をさらに極めて、自由自在に、自らの理性と教養の力によって、これらの様々な問題提起を解決してゆけばよいのである。





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