「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「精神の永遠不滅性を継承し呈示する天命」



 精神というものは、真理を理念(イデア)として認識し、著述することが出来る。その書物が歴史にどのように遺るかということは、その本にどれだけの真理が描かれているかということによって決まるのである。

 そこに精神性の高みがあれば、それは自然に、それを欲する精神的高みのある精神へと継承されてゆくのである。高みがある精神というものは、自然に人々を感化してゆくのである。それだけ真理を観照するということは、人間にとって、最高の営みなのである。

 アスリートは身体を磨く者であるけれども、その身体は無常である。しかし、哲学者は、主として理性によって自らの精神を磨きつづける者であり、精神的真理を顕わす者である。故に、本来、不滅であり、本来、永遠である。理念的真理が不滅永遠であるように、それを育む哲学者の精神そのものも、不滅永遠なのである。

 確かに、例えばかのアウグスティヌスのような精神的高みに到る人は、同時代において少ないであろうが、歴史を貫いて、その真理性は哲人から哲人へと伝えられ、永遠の人類の叡智の遺産として、永遠の人類の精神の指針として感化を及ぼしつづけ、実在しつづけてゆくのである。

 人生において、何を中軸に置いて学びつづけ、何を中軸に置いて仕事をしつづけるかということは、その人の人生の本質を決する上で極めて重要なことであるが、哲学的真理を中心に据えて、善く生き、善く思索に生き、書物を著述しつづける方は、人類の中でも、不滅の栄光の中にあるといえるのである。

 人類史上において、哲学者のいない時代はなく、その職業は、永遠不滅の職業であるといえるが、これは、その時代その時代において、精神的真理の高みの遺産を継承してゆくために必要であるともいえるのである。

 確かに、アウグスティヌスのような精神的高みに達するような人は一握りであっても、その精神を、その時代その時代において、自らの固有の表現において顕わす人がいれば、その精神は蘇るといえるのである。

 誰かがその知的高みを継承しつづけてゆくということが、人類の天命なのである。そのような哲学的精神の不滅性を顕わしてゆく人が必要不可欠なのである。

 故に、哲学に志す人は、それを天職とすることによって人類の知的法灯を継承し、万代の人々に精神的遺産を与えつづけるといえるのである。

 故に、自分自身の存在意義を考えてゆく上で、真なる哲学の内に生きるということは、最も誇りある営みであるといえるのである。

 諸学の中核は、やはり哲学的精神にあるといえるのである。精神的理念を認識することこそが、学問の中の中心であるといえるのである。

 真理が不滅永遠であるが如く、精神的高みも不滅永遠であることを明かしつづけるだけでも、人々は哲学の真なる意義を認識するのである。

 まさしく、哲学こそは、魂を永遠の理念的実在精神へと高めてゆく営みであり、精神がその本来の姿において認識されるべき学問の中心であるといえるのである。

 数多くの偉大な哲学者の精神は、歴史的に観ても永遠不滅でありつづける。このような哲学的真理に到達した精神は、永遠不滅に語り継がれてゆき、自らの本質が永遠の実体であるということを再認識せしめ、自覚させ、それを文字として証明するのである。

 産まれたものよりも、それを産むものの方がより偉大であると想定されるが、その人類の遺産となる哲学的書物の真理性を認識出来るということは、その産みの親である哲学者の精神は、永遠不滅の精神的実在であるといえるのである。

 その永遠不滅の精神的実在を認識する自らの精神の本質もまた同じく永遠であるということを自覚させることこそが、哲学の営みの本質である。誰かがはっきりと認識して呈示しないと、身体の陰に隠れて、誰も精神の永遠不滅性というものを、真に思索して、呈示出来ずに、忘れて去ってしまうのである。

 時に、哲学者が、精神の実在性というものを、書物を通じて言葉にして呈示することで、人々は、その本来の認識を回復することが出来るのである。

 精神の永遠不滅の実在性という定点に立脚して、地上的人間の営みを永遠へと導く者が哲学者である。そして、哲学者は、既に人類の遺産となっている自らと同じ偉大なる精神と出会うことによって、その本来の天命をさらに自覚するのである。





このホームページのトップへ 理念情報リストへ


「精神の永遠不滅性を継承し呈示する天命」 に対する
ご意見・ご感想などございましたらご遠慮なくお寄せください。

ご意見・ご感想はこちらから