「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「心の軌跡 精神の軌跡に思索の意義を観る」



 考えるという哲学的営みは、過程というものを重要視するものである。故に、自らの思索の過程の全てを尊重してゆくのである。

 例えば、一冊の本を叙述するためには、相当の個性的な独自の思索の蓄積が必要であって、単にインスピレーションだけによって一朝一夕に成立するものではないのである。

 人生の様々な段階において様々な知識と経験と独自の思索が積み重ねられて初めて、一つの思想体系は形成されてゆくのである。故に、書籍の一冊一冊の行間をも尊重し、その過程に輝く全ての真理を発見し、尊重してゆかなければならないのである。

 このように、自らの思想の歴史というものを観つめなおしてゆくことも大切である。人は、その都度、様々な思想的影響を受けながら、自らの思想を成長させてゆくものでもあるが、今まで積み重ねてきた思索の一つ一つが黄金の真理の光明を放っているというのが、哲学者、芸術家、宗教家の日常であり、また非日常であるともいえるのである。

 真理というものはまさしく生きているものであって、それに共鳴する方も、その都度その都度、様々な体験を経て、その真理に通じているのであって、このような自らの心の内なる共鳴現象というものを、深く広く高く洞察してゆかなくてはならないのである。

 思想の大海というものは、そこにおいて、様々な方が人生を営み、世界観を獲得してゆく父となり、母となり、兄弟姉妹となってゆくものなのである。故に、その中で、何が自らの思想上の師であるかを考えるのは自分自身の良心と理性と個性なのであり、こうして、一日一日、真理を獲得し、自らのものにしながら人間は成長してゆくものなのである。

 また、歴史上の様々な思想の中で、何が本物で何が本物でないかを議論していても始まらない所もあるのであり、それよりも、その中で、自らが何を求め、何を受け入れ、そして、何を与えうるのかを考えながら、人生を思索し、世界を思索してゆくことこそが肝要であるともいえるのである。

 例えば、釈尊の本質も真理であり、イエス・キリストの本質も真理であり、それらは全て、人生観、世界観の一つであり、真理へと到る一つの契機であるのである。このように、哲学的鏡というものは、様々な真理の光明を、その都度その都度、そこに映してゆくのである。哲学的光明が光明であるのは、全ての真理、思想の歴史を尊重するという姿勢にあるである。

 思想には、或る時は称讃され、或る時は誤解される時もあるかもしれないが、真理の光明が輝いているものをいつまでも人は誤解し続けることは出来ないものである。やがてはその真理の輝きを認め、受け入れ、一つの教訓としなければならない時が来るものなのである。

 人は、不惑の年を迎えると、少々のことでは驚かないようになり、人生観、世界観が練れてくるものである。そして、今まで積み重ねてきた真理の発見そのものをもさらに見性して、自己洞察してゆくようになるのである。

 哲学者、思想家、芸術家、宗教家、教育者というものは、どこまでも成長してゆくものでもあり、考えることそのものが天命となり、仕事となっているものである。このような思索の力の前では、どのような思想であっても、それは一つの材料となって、その都度その都度、人生に啓示を与えるものとなるのである。

 また、ある真理とある真理がお互いを輝き照らしてゆく過程を、真理の成長の過程として受けとめてゆけば、あらゆる真理、あらゆる経験を止揚統合し、発展させてゆくことが出来るものなのである。

 人生を美しく生きるということは、善く思索し、善く創造しつづけるということでもある。常に真理を積み重ねてゆけば積み重ねてゆく程に、人生の全ては真理の発見に彩られてゆくものである。

 そもそも、思索というものは、深い内省を通じて真なる自己を発見してゆくということであり、それはまさしく、ソクラテスの云う所の「汝自身を知れ」という作業をしてゆくことに他ならない。

 人生という大道には、様々な真理の華が咲き、様々な果実が実るものである。誠実に努力して歩み続けるならば、収穫されるものは大きい。必ず努力に見合う収穫はあるものである。そのような真理を求め続ける努力の過程そのものが、勝利と成功の栄光の歴史となっているものなのである。

 このように、思索して、創造してゆくことそのものに価値があるといえるのである。思索された真理は、その都度、唯一無二の輝きと表現を与えられるものである。

 そこに感ずる心があり、思索する理性があり、経験される人生があり、体験される世界があるならば、真理というものは、身近な所に実在するものでもあると実感されるであろう。こうして様々に思索された真理が蓄積してゆき、やがてあらゆる同志達を射照してゆくことになるのである。

 人生で巡り合う哲人は多く、その個性は多様であるが、その影響を受けて、その都度、自分自身も生まれ変わり、別人のような個性を持つこともある。また、若い時の難問を、年を経た自分自身が自然に解決し、道をつけてゆくこともある。このように、真理というものは、長い年月をかけて、その都度発見してゆくものでもあり、また、今まで見落していた部分を、年を経て改めて把握する時もあるのである。

 このように、生きていく魂の軌跡の全行程を見つめ直してゆく時、その全ての場面に意義のある思索的使命が見出されてゆくものである。思索され経験されて見出された真理の光明の数々は、それは、魂の精神の軌跡そのものであるのである。





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