「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「人類を貫く永遠普遍の真理の流れについて」



 時代精神というものは、その時代その時代を創ってゆくものであるが、哲学の世界においても、その時代の核となる理念を構築する哲学者が歴史を彩っている。人類の歴史という舞台は、様々な哲学的思索を可能としてきたといえるが、しかしながら、真理というものは、永遠普遍のものでありながら、その定義を、その時代によって少しずつ変えていっているものであるように思われる。

 例えば、存在論であっても、認識論であっても、ソクラテス・プラトン・アリストテレスの頃からあるものであるが、近現代のカント・ヘーゲル・ハイデガーに到っても、その根本の所は、不変のものがあるように思える。同様に、ショーペンハウアーは、プラトンとカントの学説は、その内実的真理は一致していると論説しているが、さらに、ハイデガーの存在論を観ていると、随分と古代ギリシャの存在論の原点に帰ったような気持ちにさせられることが多いのである。

 また、デカルトの、「吾思う、故に吾在り」という魂の不死性を説く考え方も、プラトンによる、思惟されるが故に物質的現象とは別に不死の魂があり、イデアの世界がある、と説く考え方も、基本的には一致していて、一貫した真理を、それぞれの時代精神に応じて言い分けているのではないかという気がする。またさらに、エマソンを読んでいると、これは、近代の思想哲学なのではなくて、ソクラテス・プラトンの頃の思想ではないかという気がしてくるのである。

 このエマソンを通していえることは、ソクラテスやプラトンの精神は、近代の時代精神として蘇っているということである。エマソンによるアメリカの文化的独立宣言、または、アメリカンルネサンスと呼ばれる文化の根本は、結局のところ、古代ギリシャの哲学的精神の復活であったともいえるのであろう。もちろん、時代的ニュアンスは随分と異なるのであるが、根本的精神の内実は一致しているのではないかと思われるのである。

 それは、「真理は永遠普遍のものである」という前提に立脚して考えるならば、時代精神といえども、その時代その時代に顕れた永遠普遍の真理、精神のことをいうのであると理解してもよいのかもしれない。

 そもそも、哲学は進歩し発展するものであるのかどうかという問いは、人類史に対して、原点となる問いかけである。或る面において、哲学者思想家の数程、進歩発展してきたともいえるし、また、その一方において、永遠普遍の真理があって、それが、その時代その時代に、湧水の如く湧出してきているともいえるのである。

 翻って考えてみるに、カントとは、人類の歴史にとって、どういう方であったのであろうか。カントの言う所の「叡智的世界」を、プラトンの説く「イデア界」と実質上一致した世界だと考えると、古代ギリシャの存在論と、近代ヨーロッパの認識論は、その根底において一致しているのではないかと思われるのである。

 もちろん、カントは、理念的なものは、理論理性によっては、「考えられるだけで認識されない」という限定をつけているが、しかし、ここでいう「考えられるだけで」というのは、プラトンの、「思惟可能であるが故にイデアがある」という時の、「考えられること」とは似ており、それ故に、カントは、近代経験論の立場から、プラトンの哲学に微妙な修正を加えているともいえるであろうし、それは、アリストテレスがプラトンを批判的に継承したように、カントは、プラトンからデカルトに続く思惟的鉱脈に対して、科学的な批判精神を加えたのであるともいえるであろう。

 しかしながら、カントが、叡智的世界からの定言的命法を永遠普遍の道徳律となし、善のイデアから導かれる永遠普遍の道徳律に従って生きることが「善く生きる」ことである、という点においては、それはまさしく、ソクラテス・プラトンの道徳哲学、形而上学の近代的展開であると観ることも自然なことであろうと思う。

 そもそも、思惟すること、思索すること、思うことというのは、魂の本質でなくて、一体何であろうか。現代医学においては、それは脳の働きであると唯物論的に解釈されることも多いけれども、それはまた現代哲学の主要課題の一つでもあるが、このような考え方は、古代においては、エピクロス等が既に説えている説であり、別に新しい問題でもないのである。エピクロスの時代においても、考える働き、思惟する働きというものは脳の働きであり、肉体が死滅すれば脳が無くなるので、考えることも思惟することも無くなると考える人も数多く居たのである。

 また、キケロやアウレリウスであっても、そうした肉体が、死と共に、原子に分解されて無くなり、それと共に、考える働きも無くなる、という見地もありうると考えた上で、あえて、「魂の不死はあろう、イデアの世界はあるのではないか」と述べているのである。

 このように、思索する環境そのものは、現代と古代ローマとではそう変わらないともいえるし、判断に迷った時には、キケロやアウレリウスのように、唯物的な科学的見地もあるが、あえて、不死なる魂を信じ、イデア界があることを信ずるという立場をとればよいのではないかと思われる。

 思想的環境そのものは、古代ローマも現代地球もそう変わらないということが不思議である。しかし、だからこそ、キケロやアウレリウスの言霊や思想や人生で到達した境涯というものが、現代でも人々の心を打つのであろうと思う。

 また、エマソンやユングなどは現代でも新しいが、二人共、唯物論に対して、一貫した唯心論とでもいうべき方向性のある哲学思想を選択されている。特に、ユングなどは、現代医学の最先端の一つでもあろうと思うが、そのユングが、唯物論的心理学を批判して、魂の不死と、叡智的世界の実在を主張されているのである。

 根本に立ち返って、思惟するという働きそのものは、脳の働きであろうか、それとも魂の働き、魂の奥なる理性の働きであろうかということを考えてみた時、現代哲学においても、論点はつきない。しかし、永遠普遍の真理は、魂の不死と、思惟する力の本質性について、ソクラテス・プラトンのように述べることであろう。

 現代における代表的な哲学者の一人でもあるハイデガーの哲学を観ていて、二十世紀に続く時代の哲学者達も、新たな魂の不死性と、思惟する力と、イデア界(理念界、叡智界)というものを探究し、顕現してゆくことになるであろうと思われるのである。







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