「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「有限なるものの中に無限の生命を発見することについて」



 たとえ一刻の時間であっても、真に哲理に生きることが出来たならば、その短い時間の内に、人生の意義を輝かせてゆこう。志は長さだけではないはずである。たとえ短くとも、真理の煌めきがあるならば、永遠の生命につながる哲理の輝きを放つこともあるであろう。

 もともと、人間とは、本来無限の存在でありながら、数多くの有限さに限定されている存在であるのだ。誰もかれもが、それぞれの有限さの中で、かけがえのない時間を少しでも真理のために奉仕しようと志しているのである。「読書が許されていない」と嘆いた古代ローマ帝国皇帝のアウレリウスは、哲学者としては有限であった。ほんとうにわずかな時間のみが哲学に費されただけなのかもしれない。しかし、その短い時間の中に、彼は永遠の生命を刻印している。

 数行の言霊の中にも、永遠の時空を貫く哲理が秘められている。今、出来る最高のことを、制限の中でしている方の姿は美しい。桜の花であっても、一年中咲いているのではなく、ほんの短い一刻の間咲いているが故に美しいという観点もある。

 故に、短くともよい。それ故にこそ、心をこめて質の高い読書をし、その中から質の高い思索を生み出してゆこうではないか。嘆いている一方において、その局面を逆手にとって、生命を短い時間の中に結晶化させてゆこうではないか。それ故に、そのような中でこそ、心をこめて、より一層輝く魂の法灯を灯してゆこうではないか。

 志は言外ににじみ出るのである。志は言外に感化をもたらすのである。どのようなハンデの中であっても、それ故に、より一層輝く生命の煌めきがあるのである。生命を込めて語った言霊は、必ずや仕事をなしてゆくのである。

 崇高なるものへの志が、哲学の営みを引っぱってゆくのであって、志がなければ、哲学は出来るものではない。哲学をなさんとする志は、人間の最も崇高なる魂の息づかいである。「朝に道を聴かば、夕べに死すとも可なり」というではないか。一刻の時間、哲学に真に打ち込み、哲理をつづることが出来たならば、真に善く生きる生を全うしつづけているといえるのである。

 寸暇を惜しんで哲理を探究するものは幸いである。それ自体が芸術となって昇華されうることである。世の中には、哲学をするのに充分な時間も体力もない方が多くおられることであろう。しかし、たとえ一刻であっても、時間を大切にして、心をこめて、哲理のために仕事をなしたとすれば、その積み重ねの中で、偉業がなされることであろう。その哲学に込められた志が仕事をして、多くの魂達に感化を与えてゆくこともあるであろう。

 哲学とは、志の連続によってこそ真に成るものである。志の積み重ねによってこそ成るものである。哲学をつづりつづけるということが肝要であって、どのような環境の下でも哲学しつづけてきたという過程が尊いものなのである。様々な限定があろうとも、その限定の枠において、その限定を超えた永遠の生命を創造してゆくことは可能なのである。

 そうすれば、どのような言い訳も、人生に対して出来なくなってゆくであろう。どのような限定の中でも、それ故にこそ、魂の光明を放つことが可能となるのである。まさに、叡智界よりの無限の光の泉を汲み出すことが出来たならば、有限の内に無限を顕わしてゆくことが出来るのである。有限でありながら、有限を超えてゆくことが可能となってゆくのである。

 ならば、有限と思われるどのような制約をも活かし、道をつけてゆく大自在境の哲人を目差してゆこうではないか。かのエピクラトスであっても、たとえ身体上は奴隷であっても、精神上は王者の位をも超越しえていたではないか。時間において忙しい生活を送っている方であっても、体力において乏しい時間しかもてない方であっても、永遠の今に臨在することが、その都度可能であるのだ。

 有限であること自体が、地上生活の試練である。肉体をもって地上生活をしていれば、本来の魂の自由自在さは、本来的に限定を受けるものである。しかし、それ故に、地上生活という舞台が、一大光明芸術の場所となるのである。

 一大光明芸術というのは、ただ単にハッピーエンドの物語という意味ではない。人生の光明を真に発揮しうる芸術であるということである。生命のイデアを輝かせうる舞台であるということである。イデアは、独り、天上世界にのみある彼岸の存在ではない。この地上世界の中に顕現する生命の炎であり、本質の光明である。

 魂の真実の声は、イデアである。本質的生命の内奥なる声は、イデアである。我々は、本質的生命の声を地上の言葉に記録するために地上世界に生まれてきたのである。地上世界において、本源的なるイデアを実現するために生まれてきたのである。

 移りゆくものの中にあって、移りゆかない言葉がある。移りゆかない生命の響きがある。真なる古典的生命は、新しい叡智界よりの湧出された泉水でもある。永遠に向けて飛翔してゆくことは、魂の本性である。本源的なる生命の力である。汲めども汲めども尽きぬ泉の内奥には、無限界が拡がっている。

 無限なるものを本源とするからこそ、永遠の生命の言葉となるのである。どのような有限の生命であろうとも、無限なるものの生命と一つに結ばれながら、無限なる生命の響きを、時空を超えて遺してゆくことは出来るのである。その意味において、セネカのいうように、人生は、短いようにみえて、実は充分に長いものである。

 有限な環境も、有限にみえて、本来無限なるものである。無限への生命の営みが、哲学の本領なのである。 




〔 光明祈念歌 〕
一時間
     哲学随想
つづりゆく
我にはあらず
哲学の生
(貴)









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