「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「道を究め道を探究してゆくことこそ哲学者の天命である」



 大宇宙大自然の根底には、天の摂理が実在している。人間もまた、天の摂理によって生かされている存在である。この道を自覚すれば、道と一体となって生きてゆくことが出来る。自己の肉体も道の内にあり、自己の心も道の内にあり、自己の理性も道の内にある。すべては道から分化発展してきたものであって、道を始源としている。

 本当の自然とは道のことである。真に道と一体となっていたならば、人間は、無為の内に無事に過ごし、無味を味わうことがよいのかもしれない。このような道と一体となった時間を過ごすことが出来たならば、人間は、いつでも自己の原点に帰ることが出来る。

 本当に道があれば、無言でも人々を感化することが出来る。何もしなくても、人々に感化を与えることが出来る。道の徳、道の光がそこに顕れれば、むしろ、和光同塵の方がよいのかもしれない。

 道を真に発見するものは、真なる理性である。道とは、法則であり、真理である。永遠普遍の実在である。人間の実相は道である。道と一体となった自己こそ、本来の自己である。真なる自然は、理性の源である。真なる理性は、自然の恩恵である。魂の内に実在する摂理は、自然の法であり、宇宙の法である。

 人間の魂もまた、道に活かされている。真に道と共にあるならば、道の徳に包まれている。魂は道と一体となることを望んでいる。道を究めることを望んでいる。魂の本来の姿として、道を体現することを望んでいる。魂には、天来の求道心が宿っているのである。真に道と一体となった魂は、理法にまで高められる。そして、本来の法身を顕現してゆく。

 思索であっても、本来の姿は、あらゆるものの中に道の理を探究してゆくということである。思索するということは、道を究めるということであり、道に参入するということである。道には本来の普遍性が宿っている。汲めども汲めども尽きない真理の生命がそこにはある。古代の時代に説かれた道であっても、その時代を超え、その国を超え、働きかけるその生命は死することがなく、永遠の生命をもって生きつづける。地上に幸えつづける。

 言霊の内に真理が込められている。真理は、時間の中で、様々な歴史に裏うちされて、経験を経て、格言となる。格言を通して、真理が真理であることを証する。我々は、格言になる程、時代を超越した真理を学んでゆかなければならない。格言となる程、実際に影響のある真理を蓄えてゆかなければならない。そこには不滅の言霊があり、不滅の法則があり、教えがある。それを尊重してゆけば、道と一体となって生きてゆくことが出来る。発見された道は、天然のものであることが多い。

 人間の様々な営みの中に真理は顕れる。人間が自然になすことは、そう変わるものではない。人間の思うこと、行うことは、前進してゆくものもあるが、変わらないものの方が多い。老子一冊であっても、その中には無限の叡智が込められている。汲めども尽きない真理の輝きがある。それでいて、洗練されている。通常、陥りやすい人情の濁点をよく心得て、そこから免れる理を説いている。

 道を真に全うするためには、数多くの難所を切り抜けてゆかなければならない。真に無我になるためには、絶えず心の煩悩を省みなければならない。真に、「日にこれを損してまた損し以て無為に到る」というのは、心の内を限りなく空無にしてゆくことであろう。様々な執着を取り除いてゆくことであろう。

 我執がなくなればなくなる程に、人間は自然体になってゆく。道がそこに顕れてゆく。真に無為自然となるためには、多くの計らい心をあえて捨ててゆかなければならない。道と真に一体となった生き方が出来てゆけば、その過程において、真理が刻まれてゆく。真善美聖の理念が刻まれてゆく。

 すべては道を究める過程においてつづられたものである。創造である。数多くの創造をなして、その時々の心境を表現してゆこうと思う。直接、道について述べなくとも、表現された言霊の中に真理が輝いていることもある。

 全ての人々が道を究めてゆく途上にある。途上にあるけれども、相応の教訓を有している。この教訓を遺してゆこうではないか。哲学というものは、結論だけが尊いのではない。結論へと到る過程の一つ一つに意味があるのである。

 人間の思索は、本来、真理の顕現である。理性の光とは、表に顕して刻印してゆくべきである。理性の光は、人間のもつ最も大いなる徳である。デカルトのような哲学の営みであても、人間精神を向上させることは著しいものがある。

 正しく思考することが出来たならば、我々は、着実に道を究めてゆくことが出来る。道に対して一つ一つ思索をしてゆくことである。真理を導き出してゆくことである。正しい思索というものは道に合致している。

 J・J・ルソーであっても、デカルトから学び、その上で、自然に還れと述べた。真なる合理主義は、真なる自然主義と一致するものである。老子の思想であっても、J・J・ルソーのように、近代ヨーロッパを中心として顕れることもある。しかし、その前提として、近代が自我の目覚めがあったのである。

 理性と感性が真理に導かれてゆく時、人間は、様々な思索を展開する。思索して、思想を遺してゆくことは、人間として至上の天命である。福澤諭吉の思想であっても、人間精神をどれだけ豊かにしているかということは考えに余りあることである。福澤諭吉の思想が遺っているだけで、どれだけ近代的精神が直接把握出来ることであろう。

 老子を学ぶことも、J・J・ルソーを学ぶことも、福澤諭吉を学ぶことも、私の中では一致している。思想を豊かならしめるということである。少しでも道理に合致した思想を持つためである。

 老子は素晴らしいが全てではない。福澤諭吉は素晴らしいが全てではない。エマソンの言うように、完全な真理の全体像というものは、様々な人物によって代表されているものである。真理を代表する人物の思想を学んでゆくということである。

 道と一体となってゆく方法は無限にある。それぞれの道を究めながら、道と一体となってゆき、道と一体になってゆく過程において、思索された真理を著述してゆくのである。さすれば、道に守られながら、道に導かれるようにして、人間の精神は無限に成長してゆくことであろう。

 道を究めてゆくことが哲学の使命である。道を顕現することが、思想家の天命である。道と一体となることが、哲人の真姿である。




〔 光明祈念歌 〕
無為にして
     無事を事とし
無味 味わい
道を観じて
哲理思弁す
(貴)









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