「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「理念(イデア)を発見する所から本来の真善美聖は生まれてゆく」



 イデアとは、本来、美しいものである。理性的思惟によって、または、直覚によって把握される理念であると私には思われる。或る時、私は、神の存在証明はいかにして可能かということに思いを巡らしつつ、デカルトの「精神指導の規則」をもって、キーシンを聴きに行った。

 そこで直覚したものは、美の根源には神が実在するということである。ベートーベンにしても、ショパンにしても、その他のピアノ曲にしても、これ程の美しいものは、神の存在なしにはありえないであろう。叡智界(天上界)の存在なしにはありえないものであろうということである。

 技術力以前に、天才はあり、本有理性、理念はあるのであるということを、キーシンも、モーツァルトも実証しているのではないだろうか。私は、眼前に神の御手を観ずるのである。そして、私自身が、地上世界にある天上世界、イデアの世界に居ることを実感するのである。しかも、それは、デカルトの思考、理性の世界とも一致するものであると思う。

 近代哲学には、光があるのである。デカルトの光は、真実の光である。必ずしも、神々から人間を遠ざけてしまうものではない。むしろ、人間を、神の子として、神に近づけてゆくものである。理性は尊いものである。宇宙を貫く法則について探究出来るのは、人間だけである。その智慧を共有しながら、己が理性を開発してゆくことが出来るのも人間である。

 ユングが、カントの「純粋理性批判」が物質の脳から生まれたというのはおかしいと、十九世紀の唯物論的科学心理学を批判しているが、私もそう思う。「実践理性批判」にしても、叡智界からの理性によってつづられたものでなければならない。魂は不死であり、神は存在するという世界観からつづられたものであり、それを実証するものであると思う。

 私は、カントやデカルトの書にも神の御手を感じるのである。本当の古典というものは、神の御手によって育まれ、創造されてゆくものではないだろうか。本来の理性が輝けば、人間は神に近づいてゆく。

 神は究極の理念である。地上にある一切のものは、理念をもっている。理念によって創られている。この理念を一つ一つ発見してゆくことが、本来の哲学の営みであり、思想の営みであると思う。真実の美の背後には、不動の理念が実在するものである。

 例えば、桜の花の美しさであっても、その背後には、永遠普遍の理念が持続的に存在しており、美をあらしめているように思うのである。薔薇の花の美しさであっても、その背後には、薔薇を薔薇として成らしめている理念があるように思われる。モーツァルトにはモーツァルトの理念があり、ベートーベンにはベートーベンの理念があり、ショパンにはショパンの理念があり、そのそれぞれに、叡智界の美、イデアの美へと通じる道があるように思われる。

 その美の観照には、広義の理性の輝きが加えられているように思えるのである。永遠普遍なるものが、そこに真象としてあらわれ、支えているように思われるのである。

 私は、カントの「判断力批判」の構想も素晴らしいが、プラトンのイデア論は、さらに根源的であるように思うのである。真なる哲学は美しいのである。真なる哲理は美しいのである。それは、イデアを認識している所から生ずるものである。本来の哲学的営みは、美しさをもっているものである。

 ショペンハウアーの芸術論であっても、イデア論が中心である。エマソンの芸術論であっても、イデア論(理念論)が中心である。ショーペンハウアーやエマソンは、一種の詩人でもあるが、それ以前に、イデア(理念)を認識する哲学思想そのものが美しく、その営みの過程に、自然に美が生まれているのであると思われる。

 故に、我々は、限りなく精神を高めてゆかなければならない。精神を純化してゆかなければならない。イデア(理念)を真に認識する鏡となる所まで、己が心眼を磨き、精神を磨いてゆかなければならないと思う。

 煩悩(盲目的意志)から自由に解脱して、イデア(理念)そのものを、般若の智慧をもって、禅定、精神統一の内に見定めてゆかなければならない。そこに神仏の智慧が顕れてくる。見性体験が生じてくる。神仏の美が姿を現わす。涅槃の境地となって後に、光明荘厳の境地が現れてくる。美そのものが、豊かに眼前に生じてくるのである。

 釈尊は、人生はかくも甘美で美しいと述べられたが、それは、真理の美から人生を観られたものであると思う。それだけ、人生の奥深さには美が潜在しているのである。我々は、無限無数の美に生かされているのである。煩悩(盲目的意志)を離れた純粋主観となって、明境止水の如き心境になれば、穏やかに無限無数の美が発見される。

 人間も、本来、全て美しい。自然も、精神も、本来、全て美しい。それが実相である。実相の眼をもって実相を把握すれば、美の姿が認識されるのである。理性の光明とでもいうべきものは、理念美を発見する。すべてのものの内にある理念を透徹して観てゆく。すべての現象の奥にある理念を直観する。理念が理念を観るのである。理念が理念を顕わすのである。理念が理念を創造してゆくのである。

 観ることは、働くことである。「行為的直観」というように、直観されたものは、芸術創造となって、世界に影響力を与えてゆく。

 観ることは創造することである。観ることは与えることである。観ることは変えることである。そこに現象は無くなり、実相が顕れる。真象が顕現してゆく。理念の眼をもって桜を観、薔薇を観、理念の耳をもってモーツァルトを聴き、ベートーベンを聴き、ショパンを聴き、バッハ、ヘンデルを聴く。さすれば、理念(真理)がそこに発見されるはずである。

 理念は、さらなる理念を創造してゆく。真理は、さらなる真理を創造してゆく。それが、哲学の営みであり、思想の営みである。理念(真理)の発見が、哲学思想の骨子である。プラトンに哲学をつづらせたのも理念(イデア)の発見であろう。カントが哲学体系を創造された根源力でさえ、理念(イデア)の発見であろう。ショーペンハウアーも、エマソンも、ルソーも、ユングも、同様の見性体験をしているように思われる。

 哲学思想の歴史は、理念(イデア)の発見から始まるのである。それを、地上の認識論や体系の中で、どのように地上の現実に合わせて構成してゆくのかは、それぞれの哲学者によって分かれてゆく。西田幾多郎であっても、理念(イデア)の見性体験をもとに、「純粋経験論」という認識論がつづられていると思われる。善を中心としながらも、芸術の神来や意義について多数言及されているのは注目に値する。

 我々の魂は、どこまでも飛翔してゆかなければならない。飛翔した魂が、側にある現象世界の内に、理念世界(イデア世界)を発見し、真善美聖を発見し、創造するものでなければならない。




〔 光明祈念歌 〕
美の探究
     無限に奥の
ありてこそ
時折観ずる
神の御手業
(貴)









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