「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「真理を探究し理念を実現することと玄徳について」



 真理とは、本来美しいものである。美しい実在が人間の内奥にはあるのである。どこまでもこの美しい実在を探究してゆけばよいのである。

 真理の光明は不滅である。古今東西の哲人達が放ってきた輝きは、不滅の光明を人類に差し示しているのである。なかなか同時代において、歴史に遺るような哲人を側に発見できるものではない。また、かりに側に居られたとしても、近すぎて、その偉大さが観えないこともある。

 例えば、ショーペンハウアーなどが側に住んでおられたとしたら、その本来的偉大さに気づくことが出来るであろうか。わずか三十歳の年にして記した「意志と表象としての世界」が、何百年先の東洋の国で読まれるということは分かるであろうか。側に住んでおられたとすれば、何か偏屈な哲学者が住んでおられるらしいというぐらいの認識しか持てず、まさか数百年後にまで遺る名著を既に三十歳にして書かれているとは思えず、もしかしたら、その欠点ばかりが観えたかもしれないのである。

 一風変わった発想をする方というのは大切である。独創的な哲学的着想というものは大切であって、人類にとっては大いなる前進であると思う。そのような大胆な逆発想が出来ただけで、人類に宝を一つ創造しているのである。新発想、新発見というものは、イデア(理念)である。天降ってくる一種の光である。故に、発想を前進させてゆかなければならないといえるのである。

 二十世紀になって、ニーチェやマルクスのことを悪しきものと決めつける方もおられることであろう。しかし、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を霊感をもって古本屋で見つけた時のニーチェの初心には輝きがある。また、経済的弱者の救済のために立ち上がろうとしたマルクスの初心にも輝きがある。

 私自身は、カント的ヒューマニズムを大切に考えるものではあるが、一人一人の哲人の中にも、かけがえのない実相があるのではないかと思うのである。また、その実相を顕現させるような哲学思想を世に問う方が数多く出てこられたならば、根源的な所からニヒリズムや唯物論的思考をなくし、道をつけ、魂と志と理念を復活新生せしむることが出来るのではないかと思うのである。

 J・J・ルソーであっても、二十一世紀以降に、またさらに、復活してゆく可能性があるであろう。その哲学思想の実相を拝み出し、結晶化させる哲人が続々と出てくればよいのである。J・J・ルソーから学ぶ真理への情熱というものはある。真理への感動というものはある。

 私は、学生時代に、J・J・ルソーの情熱と感動、やさしさと根源的思索に心動かされ、思想家になりたいと思ったものである。思想家になりたいと思ったきっかけは、J・J・ルソーの志に打たれたからであるといっても過言ではない。

 また、ショーペンハウアーは、若い時代に、バブルの景気に浮かれた自分の酔いをさますのにちょうどよかった。どのような快楽的な環境にいても、それが故に、ショーペンハウアーを読むと、全てが空無に観えて、本質的真理、イデアへの飛翔をしてゆくものであった。

 ただ単に浮かれ遊んでいるような外観があればある程、ショーペンハウアーの明瞭な箴言には、そこに涅槃と瞑想を与えるものがあったのである。どのような環境におかれようとも、主体的に考えてゆくこと、思索してゆくこと、根源的に探究してゆくことを促され、どのような人生の暗部が目に映ろうとも、そこから根源的な真理の解脱への確信が生まれてくるのであった。

 また、ルソーからカントへ、カントからヘーゲルへと真理の聖火が伝播する様は、近代の芸術であり、まさに、神の見えざる手を観じさせずにはおかないし、それを、主体的に、理性と良心をもった人間がなしているのであるという感動を呼びさますのである。

 ルソーから学んだことの一つは、どのようなものの中にも真理が宿っているということである。真理を発見しようと思えば、到る所に真理が輝いているのが、人生と世界の本質であるということである。故に、ルソーの思想は、一行のコピーのようにまとめられるものでは本来ないはずである。根源的な思索の大切さを、一生をかけて体現された方なのではないかと思うのである。カントの哲学であっても、その背景には、根源的な情熱が感じられる。真理は人間を透明に情熱的にするのであろう。

 近くに生きておられたとすれば分からない哲学者思想家の代表的な方は、東洋では、老子のような方であろう。どのような浅薄な思想の影響を受けた時であっても、老子を素読で読誦していると、気分がスッキリして調和してくる。意味はわかりやすく、しかも深遠で、飽きがこない。どんなに極めても、また奥があるような思想である。数千年経ても未だ新しい、逆発想の連続であり、新発想の連続である。

 老子の言霊には力がある。根源的に生命を包んでくれる気のようなものがある。和光同塵であるから、その存在の偉大さにはなかなか気づかないであろう。聖人は褐(貧しい服)を着て玉を懐く、君子は盛徳ありて容貌愚なるが如し、というように、外面にはその魂の高さは現れにくいかもしれない。

 また、老子で最も好きな所の一つは、万物帰して主とならず、則ち恒に無欲なり、という所である。老子の時代であっても、自ら主という俗物的人物は数多くおられたであろうが、老子のように、あえて、万物帰して主とならずといわれれば、すみやかに、その玄徳に得心がゆく。このような柔の思想が到る所に散りばめられていて、道徳の根本のところ、不易なる真理を教えられるのであり、確証させられるのである。

 エマソンやルソーが側に住んでいても、その方々が、数百年の歴史を創る方であるとはなかなか気づかないであろうと思う。コンコードでは、エマソンやソローは何をしているのかよく分からない人ということで、白眼視されていた側面もあったというが、ソローなどが、大自然の中で楽しそうに高尚なる冗談をいって、普通の俗人のように笑っている姿が思い浮かぶようである。

 エマソンの「自然論」でも、初版は数百部程度であったというのも、ショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」も、ごく少数売れた程度であったということも、面白い歴史的真実であると思う。

 ショーペンハウアーとニーチェを大きく分けるものは、無我と解脱の真理ではないかと思われる。しかし、何か私が見落としている視点があるかもしれない。もっと根源的な問いを、ニーチェは人類史に対してなしたのかもしれない。

 しかし、私は、ショーペンハウアーやエマソンにみられる、イデア(理念)への飛翔というプラトン的な素質を愛するものである。根源的な神的精神を確信するものである。本当の自己信頼とは、無我で解脱した後に生じてくる魂の本源的輝き、本源的真理の輝き、理念の輝きのようなものであると思う。

 ソクラテス、プラトンが投げかけた根源的な問いは、現代にも存在している。カントによってこそ、よりプラトンは生かされたというのが私の考えであり、実感である。それ程までに、イデア(理念)は実在であるのである。

 側近くでは分からなかった魂の偉大さが、歴史の中では姿を顕わす。老子やエマソンのような方々の思索も、大河となって、幽の幽なるものが顕れてゆく。願わくば、精神界の大河の一流として、志を一つにして流れてゆきたいものである。




〔 光明祈念歌 〕
哲学の
知恵の泉は
深くして
いつかは広く
流れ出てゆく
(貴)




〔 光明祈念句 〕
ものの芽を
見入り微笑の
こもれ咲く
(貴)





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