「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「主体性と永遠普遍の道徳律の個性の多様さについて」



 個性が豊かであるということは、何よりも尊いことである。個性の数だけ神仏の御心は実在するのである。個性の数だけ主体性が実在するのである。臨済は、相対する人々に向かって「随所に主となれ」と呼びかけている。真なる主体性に気付き、真なる主体性を発揮する時、そこに神性の理法が顕れ、仏性の理法が顕れるのである。自らの主体性を確立してゆけばゆく程に、主体性の根底に神仏の生命が宿るのである。

 多様なる主体性が共存共栄してゆくことこそ、真なる繁栄の源である。主体性の確立というものにも、道程があるものである。主体性を確立してゆく過程において、様々なる哲学が生まれ、思想が生まれ、文化芸術が生まれてゆくのである。

 主体性を尊重してゆくということは、哲学が生まれる源であるともいえるのである。言論の自由にしても、思想良心の自由にしても、近代以降、美徳とされている社会哲学の背景には、主体性の哲学が存在するのである。自らの良心の奥に、独自の天上世界、神仏の世界を観ずることが出来るからこそ、真に個性ある言論、独自の言論が展開出来、その集積として、社会全体も健全にイノベーションされてゆくのである。

 故に、哲学的精神態度として、まず何よりもなすべきことは、自らの主体性を確立するということなのである。他の何ものにも頼ることなく、自ら思索するということであり、自ら思索した過程を表現してゆくということなのである。

 エマソンは、自己信頼は帰依の精神につながると述べているが、自らの主体的な思想が究極の神仏の御心と合致することが理想であり、少なくとも、合致するように自らの良心に従って思索してゆくことが、自らの思想を育む王道なのである。

 真に自己を確立することによって、自己の思想をテーゼとして、アンチテーゼの思想を創出し、さらに、ジンテーゼの自己の思想を発見することによって、自己の思想を限りなく成立せしめてゆけば、一つ一つの思想の過程で主体性を確立したことが、全て尊い過程となって活きてくるのである。

 故に、自己の思想を自覚してゆくことが常に原点となることであって、思想というものは、明確になされた所から既に発展してゆく道程が描かれているのである。故に、主体性を確立したその思想の奥に、さらなる主体性が潜んでおり、より内奥なる自己世界が開拓されてゆくことによって、思想の可能性を広げてゆくことが、真理を探究する過程であるといえるのである。思想の無限の可能性を発見してゆくことが、哲学的精神が開拓する無限に広い大地であるといえるのである。

 人間の魂が救われ、より高次なるものへと昇華される道は無限無数にあるのであり、全人類の歴史に遺っている古典の数よりもはるかに多いのである。広い心をもつということが、人生をいかに豊かならしめるかということは、可能性は無限にあるのである。

 人類史を達観していえることは、本源なる神の御心は限りなく広いということなのである。故に、一つ一つの思想に執われて、自己を小さくしてしまうのではなくて、積極的に広さを創ってゆくことも、哲学の原点にある精神なのである。

 人間の良心の数だけそれぞれの主体性はあり、人間の理性の数だけ神の理法は実在するのである。絶対なる無の如き限定されない真理こそ、本来の神の御心なのである。良心の数だけ救いは実在し、良心の数だけ天上世界は実在し、その内奥に、神々の世界が広がっているのである。

 道徳法則というものも、法則であるということに注目しなくてはならないのである。法則である限りにおいて普遍であり、永遠であるのである。一人の格率ではなくて、万人の格率となるべきものなのである。この道徳法則というものが万人の心の中に宿っているのであって、道徳法則の発現のされ方は、人時所において、無限の可能性があるものなのである。

 主体性を確立するといっても、その根底に道徳法則が働いているものであってはじめて、真なる主体性というのであって、自己の根底にある道徳法則に忠実に生きてゆくということは、主体性を確立するために大切なことなのである。

 真なる良心の根底には真なる思想が宿り、真なる哲学が宿るものなのである。様々な知識的真理に影響を受けながらも、それに対して、良心がいかに働くかということを主体性をもって発見しつづけてゆけば、そこに、独自の哲学思想が生まれてゆくものなのである。

 マルクス・アウレリウスの「自省録」であっても、形の上ではエピクテトスなどのストア哲学の影響を強く受けているといえるけれども、その思想の一つ一つには固有の個性が輝いており、固有の主体的真理が輝いているといえるのである。

 まず、どのような真理の影響を受けるかということにおいて、人類の模範となるべき良書を据えておくべきであるけれども、それに対して、常日頃、何を感じ、何を考えるのかということにあたっては、良心が主体性をもってとり組み、一つの思想哲学を生み出してゆけばよいのである。

 マルクス・アウレリウスは、形式上はキリスト教の影響を受けることはあまりなかったのであるが、ギリシャ・ローマの伝統的精神を探究してゆくことによって、永遠普遍の真理の一端を穿つことが出来、その思想の形式ではなく、内実を観てみると、キリスト教の真理と一致しているのであって、真理というものは、その表面ではなく、実質的精神によって判断されなければならないといえるのである。

 永遠普遍の道徳律というものは、万人にとって永遠普遍であって、一宗教、一宗派、一哲学、一思想を超えてある実在精神そのもの、実在生命そのものであるといえるのである。故に、キリスト教ではない方々の魂をも、マルクス・アウレリウスの「自省録」は救い導く力があるのであり、アウレリウスがゼウスの都ローマという時、その敬虔な心は、キリスト教の信者と実質的に同じと評価されるべき宗教精神があると思われるのである。そのローマ帝国を離れて、まさに地球市民の一柱として、時代、民族を超えて、その真理は、人々の心に穿つものがあるといえるのである。

 真実なる良心の声というものは、特定の宗教の枠を超えせしめ、特定の哲学の枠を超えせしめるものがあるのであり、永遠普遍の道徳律というものは、本来、純粋真理であるといえるのである。各々の人格に投影される形で顕現するけれども、その実質は、人格を超越した理法であるといえるのである。故に、どのような個性ある真理を敬い、神を敬う精神態度からも、魂を救い、天上へと導く道はあるのであるといえるのである。

 実質的な精神態度において、同じ心境になり、同じ成果をあげるのであるならば、道は無限無数に実在するのである。そして、周囲の方々を観察してみればよく分かることであるが、実に様々な個性的真理から魂が救われている様を観るのである。

 仏教においても、ある方は禅の修行を積んで見性体験をされているが、ある方は浄土真宗によって自らの愚かさを深くみつめながら、そのことによって信心の仏性を顕しておられるのである。そして、そこで説かれている真理は、それぞれに個性的であることが特徴であって、その個性の背後に、他人によってはなかなか追体験しにくい心境の過程があり、重みがあるように思えるのである。

 儒教と道教においても、同様のことがいえる。その両者に、確かに救いと昇華の道が実在しているのである。道教の中でも、老子と荘子とでは、軌を一にしながらも、異なった世界が展開しているといえるのであり、それも個性と主体性の有つ本源的な意義を示しているといえるのである。

 永遠普遍的なる精神的実在が限りなく多様に顕れている所に、究極の真理としての神の尊さを観るのである。



〔 光明祈念歌 〕
そこかしこ
真理の光
輝きて
無限に導く
あめつち
広き天地
(貴)



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