「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「主客合一の境地の中に理念的真理が顕われてゆく」



 理念的真理というものは、理性が、それ自身の根底において直覚するものである。理性が、それ自体の内部において、永遠普遍に立法してゆくものである。

 故に、我々は、理性それ自身を探究対象としなければならない。神性の背後には神が実在し、仏性の背後には仏が実在して、神性と神、仏性と仏が本来一体であるように、理性と理念は本来一体であり、理念がその本来の姿を示現したものが、理性なのである。

 故に、理性を自覚出来ること自体が、先天的に自由の意志をもった叡智的意志の自覚であり、真なる叡智的意志に裏うちされてこそ、真なる志は生ずるといえるのである。本来の大いなる夢とは、各自の恣意ではなく、各自の格率で終わってしまうものではなく、永遠普遍の立法として通用するものであった時に、真に大いなる夢であるといえるのである。

 各自の自我を超え、理性自らの内に超入し、理念的自己と一体となった時に、どのような外面上は小さなことであったとしても、大いなる夢の実現に変わり、大志に変わってゆくのである。

 故に、一刻一刻において、大いなる夢、大志を実現成就してゆくことが大切である。一刻であっても、永遠普遍なる理念の光明をもつ時に、一刻の中に、実相的価値が宿るのである。

 故に、一挙手一投足の中に、真なる理念を顕現せしめよ。一挙手一投足の中に、永遠普遍の道徳律を立法化せよ。永遠普遍の理念を分化発展させよ。真なる理念の革命とは、いつかにおいてあることではなくて、常に、今ここに成就してゆくことを要請されているものなのである。理念的自己実現の集積が理念の革命の大道となってゆくのであって、真なる自由の大道となってゆくのである。

 自己の内に、自己の理性そのものの中に、限りなく理念的なるものを直覚してゆこうではないか。既に自己に備わっている大力量人なる仏性を顕わしてゆこうではないか。無の大道を示現してゆこうではないか。自己に真に正直になることが、自己信頼の王道であり、自己の個性を重視することが、真なる永遠普遍の大道のあり方であることを知る時、人間は、真に自由になることが出来るのである。

 自由で伸び伸びとした雰囲気を創ってゆこうではないか。真なる自然体の自己実現を成してゆこうではないか。今ここに、いつもどおりの日常の中に、永遠普遍の道徳律が探究され、立法されていることが肝要なのであって、日常の中に実現された理念こそが、真に尊いものであるといえるのである。自然体の中に、理念的生命が躍動していることが大切であり、常日頃から思索がなされており、常日頃の精神の内に理念が躍動していれば、それが実力となって、一つの舞台を形成してゆくといえるのである。

 理念は、今ここにあるのである。その精神を一貫してゆくことである。日々日常の中で、永遠普遍なる理念的精神、理念的世界へと飛翔しつづけ、理念の天地をもって、自己の生命となしつづけてゆくことが肝要なのである。そうすれば、三界世界に自然に理念的生命が躍動し、如実に真理として顕れるのである。

 眼前の天地と真に合一した自己こそが、純粋経験の奥に顕れる実在としての自己そのものである。自己も他者もない自己、主観も客観もない自己である。自己に執われない自己であり、何にも執われない自己であり、自己以前の自己である世界である。理性本来の理念である自己であり、世界である。

 理性を神性仏性と同義に据えてゆけば、哲学の真義が分かり、理性の本質には、プロティノスのような神秘的直観があることが分かるのである。ヘーゲルのような論理的思惟の根底にも、理性的直覚はあるのであり、理性的直覚の体系こそが、ヘーゲル哲学の体系の本質であり、カント哲学の体系の本質でもあるといえるのである。

 故に、理性の働きによって哲学的思惟をなし、理念そのものとなってゆくことが哲学の王道であり、一本の永遠普遍へと到る道であるといえるのである。

 理性の働きを活性化するためには、知識だけではなく、精神統一の修練をしてゆくことが大切である。実質的な禅定に入ってゆくことが筋道である。精神統一の修行がすすむにつれて、理性が活性化し、理性的思惟が進んでゆくのである。そして、理性的思惟の中から、真理そのものが輝き出でてくるのである。

 自己の精神を客観的真理と合一せしめ、客観的真理の内に認識することが出来た時に、真なる精神統一が出来たといえるのであり、真理と統合された自己こそが、本来の理性の導く理念的自己像であるといえるのである。真に真理において、狭義の自己を超え、狭義の他者を超え、一者となし、狭義の主観を超え、狭義の客観を超え、実在となしてゆくことが、純粋なる経験である。

 ジェームズの純粋経験説は、自己の経験の内部にとどまるが、西田幾多郎の純粋経験説は、自他一体になり、世界の根底を穿つものとなって、発展止揚されたものである。実在の根底そのものを穿つものである。

 思惟の根底には、絶対理念が実在するのである。永遠普遍なる、理念としての真理、真理としての神仏が実在するのである。思惟の根底を真に知るものは、思惟そのものの本源的力である。理性そのものに、本源的に思惟の根底を穿つ力が備わっているのである。

 カントは、主観と客観とを対立したものとして描いてゆくが、西田幾多郎は、主観と客観とを合一した所に、真なる実在としての事実を発見してゆくのである。見性してゆくのである。思惟の根底を穿った時に、神仏の生命そのものの自己と出会うのである。神仏の生命が展開した世界と出会うのである。

 思惟を離れて、本来、いかなる世界も想定することは出来ないのである。思惟的事実であることが、そもそも主客合一した認識を示しているのである。このような思惟的事実をありのままに覚る時に、その根底に神仏の生命を発見することが出来、神仏の生命を、自己を通して自己展開してゆかんとしていることを悟るのである。

 思惟的事実であっても、一なる生命の止揚発展した姿であって、一なる神仏の生命が拝されるのである。このような思惟的事実を知ることを、本来の理性の働きというのである。思惟的事実の背後にある一体系を知ることを、本来の理性を活性化させる哲学的営みというのである。すなわち、真なる一者と合一してゆくということである。真なる一者の生命に透け込んでゆくということである。

 没我天地世界、一体となった境地の中に、自ずから自己が展開してゆくのである。主観客観、一体となった境地の中に、無我なる個性的真理が展開してゆくのである。真なる理念が、無我なる境地の奥に発見され、顕現され、成就してゆく時期に、真なる理念の体系は、あらゆる点から実現成就してゆくのである。

 その過程において、天然の自己が発露し、大道を形成してゆくのである。天然の理性の輝きが、真理の光となって人間を照らし、世界を照らしてゆくのである。



〔 光明祈念歌 〕
一歩にも
永遠普遍
理性なる
智慧の風鈴
響く音知る
(貴)



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