「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「理念を実現するのが哲学者即志士である方々である」



 神が一なるものであるというのは、法則においてである。そして、多なる現象として現れているといってもよいものである。アインシュタインの神はスピノザの神でもあり、それは、プラトン、アリストテレスの神でもあるものであった。

 我々は、神という言葉に対して、限りなく無限なるものへの憧憬をもち、同時に、柔軟性をもっておいた方がよいであろう。赤子のようでなければ神の門は開かないといわれるが、まさしく我々一人一人が真理を探究してゆく上で、赤子の如き心を、純粋真理を求める誠心をもってゆかなければならないということでもあろう。

 法身、法則としての神は、人格神の実質である。実体である。これ以外のものは影にすぎない。空であり、無である。一なる法則が展開して万物成るのであって、全ての現象は、理念の影であるといえる。このような観点から理念(イデア)を定義し、理念学術体系についても、その思索を広げてゆかなくてはならない。

 理念そのものを定義するにあたっても、それ自体が一つの哲学となり、思想となり、数冊の書となってゆくものであろうが、理念が応用応化された法となると、無限無数に実在があってもよいのである。真理があってよいのである。

 故に、その全てが天川貴之の筆によるものという訳でなくとも、JDR全体として、一人一人が真理の法灯を継承し、各自独自に理論を展開していただきたいのである。それこそ、理念学術研究所の趣旨であり、JDR義塾大学の趣旨であるのである。

 一つの神学的理念から派生した問いが一つの哲学として結晶化し、さらに応用応化されて各論的学問となってゆく姿は、壮観なものがある。かつてのアリストテレスも、プラトンの理念(イデア)を継承しながら、独自に学問の諸体系を発展させてゆかれたのである。

 新時代に向けて、新しいアカデメイア、新しいリュケイオンが必要となっているのであり、そこにおいて、正しい理念の探究がなされ、理念の応用がなされ、理念の教育、理念の実践がなされていったならば、人類社会は、より一層、理念の光明の華を開花させてゆくことになるといえるのである。

 「精神的ジャパニーズドリーム」は、哲学的思想的青写真であって、その洞察によって機として与えられた光が、さらに昇華されて、様々な大輪の花を育ててゆくことになるのである。この運動は十年以上にわたっておこなってきたが、ここ何十年にわたってつづけられ、さらに、数百年、数千年にわたってつづけられ、伝統につぐ伝統を創り出してゆくことが大切であると思う訳である。

 そこで、本当に自由闊達な研究風土を、JDR(GDR)の中に創ってゆかなければならないといえるし、自由な思考、自由な発想から、新たなるものを常に育みつづけてゆかなければならないと思う訳である。多様なる神が共存し、多様なる名前を持ち、独自の文化を形成してゆくことを尊重するのは、学の場として、当然の立場であるといえるのである。

 ここは、絶対無の場所である。生命が生き生きと幸える場所である。あらゆる限定を積極的に外してゆく場所であるといえるのである。自由こそ、理念に不可欠な要素である。自由があってこそ、理念の生命が躍動し、理念の生命が躍動するから、自由があるのである。そして、この自由を守るために一定の秩序があるのであり、それが法となり、社会の機構となっており、また、国家となっているのであり、地球という星となっているのである。

 その場所は、常に理念が生き生きと躍動してゆく場であってほしいと願うものである。それは、あらゆる哲学的魂の願いであり、祈りである。人間が真に文化と共にあり、哲学と共にある時、哲学的魂が成熟し、哲学者となる。そして、理念を求め、己が魂の翼をはやしてゆこうとする。その時に、自由というものが大切であり、理念が多種多様に幸えるということが大切なのである。

 この風土を大学の内に創り、研究所の内に創ってゆくことは根本であるが、家庭の内にも職場の内にも哲学的風土を発見し、顕現し、さらに、国家としても、例えば、教育国家、文化国家を目差すのであるならば、このような理念が自由に幸える場所を創ってゆくという観点も大切であると思う。政治的理念は、同時に文化的理念たりえるのであり、文化的理念が政治的理念となるのが本来の姿でもあるのである。

 近代国家が成立したのは、主として国家が自由を保障するためであった。自由の秩序を創るためであった。故に、理念が自由であったのであり、それが秩序となったのである。その基本は、現代においても、新時代においても、基本的に変わるものではない。

 時代が求めているもの、それは、理念的光明である。光である。真理の光である。新時代へと導いてゆくに足る時代精神の連続である。思想は天意であり、天意を形成してゆくものである。哲学の中に光がある。それは、プラトン哲学が精神界の太陽でありつづけた如くである。

 故に、哲学思想に対して、また、科学芸術に対して、無限に心を開いてゆこうではないか。まさしく、無限なるものの無限なる力が我々に与えられているのであるから。理念は実在である。実在は理念である。そのように定義して、哲学をつづってゆくことも可能であると思われる。

 西田幾多郎の発見された唯一実在としての神は、理念そのものの真理、法身としての神、一にして多、多にして一の神であったのであると思う。故に、日本哲学を理念的にも深めて、世界哲学へとなして、その学術を様々なものに応用具体化してゆくことが大切であるといえるのである。

 哲学的営みは、理念の泉である。無限に湧き出で、その底において、唯一の神につながっている所の泉である。我々は、心の奥底に、一なる泉を多様に広く深く高く掘り下げてゆこうではないか。

 ヘーゲルのいった如く、理念は現実でもある。現実の政治経済の諸原理の中に、理念が顕れている。また、理念を顕してゆかなければならない。それこそ、本来の意味での志士的マインドをもった哲人達の使命であるといえるのではないだろうか。

 哲学者が志士となり、志士が哲学者となる時代に、我々は生きているのである。



〔 光明祈念歌 〕
諸理念を
応用すべき
現実社会
そのものの中
(貴)


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