「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「古典的教養の大道と天命思想を実現する道について」



 じっくりと古典の王道を歩みつづけてゆく姿勢をもっていることが、何よりもの精神の安定感、心の安定感になってゆくことが多いのである。故に、読書の中心は、数百年、数千年の歴史の中で鍛えられ、遺ってきた古典にするべきである。さすれば、流行や変化に流されない永遠普遍の大道を確実に歩むことが出来るであろう。

 ところが、未だ歴史的価値が充分に定まっていないものを読書の中心にしていると、その本と共に、自らの心の拠り所、精神の拠り所も右往左往してゆくことが多い。一時的にブームに乗っただけで、数百年後には全く顧みられないような書籍にいくら時間を費やしても、本当の心の拠り所、精神の拠り所は求められないであろう。

 人間の認識能力には限界があるものである。どのような人間も、原則として、その時代の限界を超えることは出来ないものである。故に、同時代同地域にあるものに比重を置きすぎることなく、古今東西の古典に比重を置いてゆけば、自ずから時代の限界を超えて、永遠の道、普遍の道を生きることが出来る。

 プラトンであっても、キケロであっても、キリスト教が布教されようがされまいが尊いものであったし、近代自由主義、民主主義の時代にあっても尊いものであったし、その意味で、永遠普遍の価値を持っているといえるのである。それら人類の教師とでもいうべき人々の声は、何と永い生命を保ちつづけているものであろうか。

 真理というものは、永遠であるからそもそも変わらないものであるし、普遍であるからそもそも地域の限定を超えているものである。この変わらない真理を尊重してゆけばよいのである。数百年、数千年をかけて人類に奉仕してきた古典的生命は、今後も、数百年、数千年かけて人類に奉仕してゆくことであろう。その狭間に生きているのであるから、やはり、数百年、数千年かけて歴史の風雪に耐えてきた古典によって、日々の精神を磨いてゆくべきなのである。

 それは、決して誤らない精神の王道である。王道が王道である故は、変わらない理念価値を有しているということにあるのである。独特の安定感と広さをその内に有していることで明らかとなってゆくのである。その古典的生命から幾つもの枝葉が分かれて生い茂ってゆくのである。その幹からは、無限無数の古典的生命の枝がさらに生えてゆくような潜在的可能性を有しているのである。

 真理の真理性は変わるものではないという信頼感が、人生観、世界観を支えてゆく大きな柱となってゆくのである。エマソンは、自己固有の直覚(直観)の大切さを随所に力説しておられるが、それと共に、古今東西の古典で知徳を磨いてゆくという精神態度が、彼の直覚(直観)をより深め、より高め、より広めていることに着眼しなければならない。エマソンのもつ思想の重厚さは、彼の幅広い古典教養の道から生まれたものであるということを忘れてはならない。故に、自ら思想を育んでゆかれるような方であればある程に、古今東西の古典に、心の中軸、精神の中軸を置いて、思想的安定感を保っていった方がよいのである。

 古典的教養を信頼してゆく道は、広い道である。自由闊達な道である。伸びやかな道である。無限の高さと、無限の広さと、無限の深さをもった道である。故に、無限の可能性をもった道であり、無限の希望と福音をもった道である。この自由で伸びやかな空気というものを、決して忘れてはならない。それは、知的教養の大道を歩む者にとって、自然に幅広い古典が協奏し醸し出している所の香気である。この逆の、何かに縛られるようで、狭い何か強迫的な小道には、あまり比重を置かない方がよい。数多くの古典が協奏して奏でる大調和の世界こそ、本来の神の国であり、天上の風景なのである。

 西田幾多郎を読みながら、西田幾多郎と語らい、エマソンを読みながら、エマソンと語らいながら、自らの著述をすすめてゆけば、本来の天上的生活そのものではないかと思うのである。古典的生命の道を共に歩む時に、時代を超えた人物、地域を超えた人物と直接語らっているのであるという感覚を身につけてゆけば、現代に生きながら、現代を超えて、永遠の今を生きている自分というものを見い出してゆくことであろう。

 わずか数十年の人生の数刻の間に、永遠普遍の古典的生命と直接相まみえることが出来るということは、人間の精神生活というものは、何と恵まれたものであることか。様々な古典的生命と共に生きてゆけば、人間は、決して本来的に孤独になることはないのである。むしろ、無限無数の師や親友や同志達と共に生きてゆくことが出来るのである。

 しかし、自らが、今現在に生かされているということは、今現在の自分を活かすことに天命があるものである。それ故に、エマソンや西田幾多郎のような自己固有の直覚(直観)にどこまでも忠実に歩んでゆくべきであり、忠実にそれを表現し、実現し、顕現してゆけばよいのである。それを、何かの先入観で縛ったり、執われたりする必要はないのである。そのような束縛があるのならば、むしろ、自ら外していった方がよいのである。そして、何よりも、自ら固有の思想を守り導いてゆくべきである。それこそ、本来の自由の実現であり、そのためにこそ、自由の諸制度が必要なのであると思われるのである。

 自らに直接啓示された所の思想こそ、自らが最も大切にするべき宝物である。自らの理性と良心の最も純粋な声こそ、真に歴史の中に刻印しておくべき至宝である。人生の意義そのものであり、花であり、果物である。この自己固有の思想に、より普遍的で永遠的な語り口を与えるものこそ、古典的教養であるといえるのである。そして、最たる正しい道への導き手こそ、古今東西の古典書であるといえるのである。

 神は、一なるものでありながら無限無数に多となって分かれて存在しているものである。この一なる所を無限に知ってゆく所と、多なる所を無限に知ってゆく所に、古典的教養を歩んでゆく過程での眼目があるといえるのである。無限無数の安定した変わらない師があり、親友があり、同志があれば、何よりも安心立命して、自らの心の内奥なる天命となる思想を実現してゆくことが出来るのである。

 日々日々、古典的教養の中で、豊かに、伸びやかに、自由に、自らの個性的な華を咲かせてゆけば、それこそ、究極の創造的実現となってゆくのである。



〔 光明祈念歌 〕
無限無数
古典の師友に
導かれ
自己の天命思想
に生きる
(貴)


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