「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「本源的なる理念の描かれるべきキャンバスとしての人生について」



 人生の中にどのような哲学理念を発見し、道をつけてゆくかということは、無限の可能性があるものである。一種類の道しかないというものではない。人生の道とは、そのような単純なものではなく、多重的に、様々な個性的理念の大道が拓かれているものなのである。結局のところ、寛容さというものも、こうした一つ一つの異なった道の歩み方を積極的に認めてゆく所から生じてゆくのである。

 それぞれの方が、それぞれに、己れに固有の道を発見してゆけばよいのである。己れに固有の理念を発見してゆけばよいのである。他者の理念というものは、己が固有の理念を悟覚する一つの機縁にすぎないのであって、あくまでも、自己の道を歩みつづけてゆくという本道を外してはならないのである。全ての人間には固有の道というものが本来的に内在しているのであって、これは、他者が決して侵してはならない固有の心の国、精神の国であるといえるのである。

 他者が与えうる最高の愛は、各々が各自の最高の大道により一層目覚めてゆくための機縁を与えてゆくことなのである。自己が真に自由であるが如く、他者も真に自由であるというのが理想の人間関係であって、お互いに、各自の自由を尊重し合うからこそ、そこに、真なる友愛の情が生まれてゆくのである。各々の道は異なるけれども、異なるが故に、かえって根底においては同一の道を歩んでいる者同士なのである。それは、永遠普遍なる理念の大道であって、万人に共通しており、万人が共通の真理の土台を持ちながら、共通の天の摂理によって生かし育まれているといえるのである。

 それ故に、自己の道をより深めてゆくことが、同時に、他者の道をより深めてゆく機縁を提供しているといえるのであり、自己の道を究めてゆくことそのものが、同時に、他者に対する最高なる愛の形となっているといえるのである。

 自己の人生において発見された真理は、それが深い所から汲み上げられたものであればある程に、他者にとっても、真に人生の基軸を昇華し、止揚発展させてゆく魂の糧となっていることが多いのである。故に、真に哲学的に自己の人生を掘り下げて歩んでゆくことは、その姿勢自体において愛を与えているといえるのである。

 人生において大切な視点は、質の深化であり、高度の質のある真理を掲げてゆけば、それが、平板な人生を送る膨大な時間の量よりも優れていることも多く、真に質が量へと転化されてゆくことも多いといえるのである。

 人生を歩んでゆく中において、ネガティブな感情を抱くことは比較的簡単であるが、ポジティブな真に崇高なる感情を抱き、崇高なる理念を把持しつづけてゆくことは困難である。故に、どのような人生の素材の中にあっても、常に崇高なる感情を抱きつづけ、崇高なる理念を抱きつづけてゆくことによって、根底から人生全体を光り輝かせてゆくことが、何よりも肝要なことではないかと思うのである。

 人生のネガティブな感情に執われてくよくよしている時間があれば、その時間をもっと高度なことのために積極的に使用してゆけばよいのである。その精神エネルギー、心的エネルギーをもって、出来得る最上のことを、常になしつづけてゆけばよいのである。さすれば、人生は、到る所青山ありの状態になってゆくのである。あちらこちらにも、金剛石の如き価値の光明が実現顕現してゆくようになってゆくのである。

 真理を実現し、顕現してゆく人生というものは、ただの人生ではない。いわば、本来理念の生であり、本来光の生であり、本来神仏の生命の生である。こうした時間を人生の到る所に顕現してゆけば、人生こそが、真なる一大光明芸術、一大理念芸術を実現顕現させ、描き出してゆくキャンバスの如きものになってゆくのである。

 故に、真理をもって自己の人生を真に開拓してゆこうではないか。真理を実現することを、自己の人生の一大目的としてゆこうではないか。どのような泥沼に観える人生の諸現象の中においても、永遠普遍なる真理の光明を輝かせながら、人生を歩んでゆこうではないか。ただ生きるだけではなくて、自己に出来る限りの最深の生と、真なる理念的生命の輝ける生を全うしつづけてゆこうではないか。

 善く生きる善とは、永遠普遍なる理念価値の実現顕現であるともいえる。人生は本来理念的なものであって、無限無数の理念価値を潜在しているものなのである。本来、光り輝いている宝石の原石なのである。真実の勇気と希望というものは、深奥なる理念から湧き出してくるものである。真実なる生きる糧とエネルギーとは、深奥なる理念から無限に汲み出してゆくことの出来るものなのである。

 他者に頼らずとも、まず何よりも、自己の本然的価値の源を採掘してゆこうではないか。自己固有の価値鉱脈を深く深く掘り下げてゆこうではないか。直接に神仏の生命を穿ってゆこうではないか。そのことによって、神仏の生命と一体となろうではないか。神仏の生命と一本に結ばれて生きてゆこうではないか。このような最深の自己信頼を常に確保してゆくことが、結局のところ、他者に対して敬意を表し、自分なりの最高の愛を与えてさしあげることになってゆくのである。

 神仏の生命、理念の生命をどこまでも掘り下げてゆけば、そこに古典があるのである。古典以前の古典的生命が、そこに生き生きと躍動しているのである。その生命の躍動に触れれば、我々の人生は、真に生き生きとしたものへと変じられてゆくのである。人生を質的に変化させてゆくに足る真理をもって、人生の最高の価値としてゆこうではないか。

 真に深い所から自己の人生を変える契機となってゆくものは、独り、自己の宝となって永遠の人生の遺産となるだけではなく、多くの人々に、様々に応化した形で、一人一人に相応した形で、善き感化を自然に与えてゆくものとなってゆくことであろう。

 永遠普遍なる真理の天地に泰然と歩みゆく本来の自己実現として人生を観よう。真に生かされきった時に、人を真に生かしきることも出来るようになってゆくものである。真なる不動心というものも、不動の信念というものも、自己天然の理念に穿ち入らんとする過程において生じてくるものである。その時期に、様々な薄い情念など、すべて陽炎の如き、移りゆく雲の如き存在に観えてくるのである。

 空相の境地をもって観じていれば、あえて執われることもないのである。ただ、本来的な真実の生を歩みつづけてゆくだけである。空相中の理念的光明は、善の太陽となって、人生観を、世界観を、根底から照らしてゆくことであろう。そして、気がついてみれば、そこに晴天の青空が雲一点なき状態となって拓けているのである。

 全ての全ては、本来的な理念の顕現してゆくための舞台にしかすぎないのであって、本源的な理念が顕れる時期、全ては大調和、大団円のものとして観じられてゆくのである。



〔 光明祈念歌 〕
どこまでも
自己の内奥
穿ち入り
本源的な
人生を識る
(貴)


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