「哲学随想」
Japanese Dream Realization



「自己根底の真理と宇宙の真理が一致することについて」
〜真なる創造的実現〜



 信仰心というものを考える時に、自己内部の内の大いなる神に目覚めることが大切な観点であるということは、一貫したモチーフとして述べてきたことであるが、この大いなる神というものについて、さらに洞察を加えてゆきたいと思うのである。自己の内なる神に目覚めるということ、自己の内なる仏に目覚めるということは、逆にいえば、限りなく、私心、小さな自我心というものが小さくなってゆくということでもある。自己の内部に実在する所の神仏も、他者の内部に実在する所の神仏も、天地の内に満ち満ちる真理(理念)としての神仏も、全ては一つである。一つでないと、真なる神仏であるといえない。

 真なる神仏というものは、小は人心の根底から、大は大宇宙の根底に到るまで同一である。それは、全ての全ての生命が一なる法則に統べられて実在しているのと同じである。この法則の如きものが、真なる神仏であるが、法則というと、何か無機的な、無人格的な感じがするのであるが、その本質は生命であり、活き活きとした意志を持った一大生命の躍動、または静止せる姿であるといえるのである。限りなく法則的なるものが真なる神仏の本質であり、それは、崇高なる人格性に裏うちされた叡智であり、また、愛と慈悲と仁であるといえるのである。

 何故に、人格の根底に、また宇宙の根底に、圧倒的に善なるものが認められるかといえば、我々が、善を善として先天的に悟得する根源に位置するものが、本来の神仏、本来の法則としての神仏であるからである。仏教においても、仏の真なる御姿は法身であり、真理そのものであると述べられているが、この法身としての神仏が無ければ、仏教的道徳の根本原理、形而上学的原理が成り立たないのではないかと思う。法身という概念があるからこそ、人格的でありながら、人格的なるものの限界を超えた超越人格としての仏が成り立つ訳であり、超越人格としての仏があるからこそ、全ての生命、ありとしあらゆる生命の営みの根底に、仏の働きを認めることが出来るのである。故に、大宇宙の根本を統べる真理と、人心を統べる真理としての仏教道徳は一なるものであり、同じ生命、同じ光明をもっているものであるといえるのである。

 神と仏とは、根本精神は一つであり、名称が異なっているだけで、真理の別名に過ぎないのであるから、キリスト教や、神道や、ギリシャ哲学等の神と称される分野においても、同様のことが言えるのである。

 このように、人心の根底から大宇宙の根底に到るまで、全て一なる生命で統べられていることを真に自覚したのであるならば、真に宇宙的自己、真理的自己という真なる大我に目覚めたということであり、小さな自我の計らい心は限りなく無くなってゆき、大いなる神仏の摂理に全託してゆこうという気持ちが生じてくるのである。

 大いなる神仏の生命たる理法は、我々が考えられる限りの様々な道徳的善を含み、それを深く高く広く統合されているものであって、それ故に、限りなく安心立命すべき根底であるといえるのである。それ故に、本来の自己信頼、本来の自信、本来の信念というものは、限りなく敬虔なものであるといえるのである。およそ、深き神仏の生命と帰を一にする所の信念がなければ、本当に大業を成すということは出来ないのであり、単なる自我力の信念では、ささいなことに行きづまってしまうからである。

 本当の信念というものは、ただ単に強いということだけではなく、神仏の生命と一つになっているが故の本源的剛さを自然に有しており、大宇宙の理法と合致しているが故の、理そのものにかなっている所から生ずる、完成度の高い、いわば数学的剛さを有しているといえるのである。この自ら感得しえた内なる神仏の生命の調べは、自然な言霊となり、その文章は、数多くの人々の心を打ち、数十年、数百年、数千年を貫いて、古典となり、文化文明の基礎となってゆくものである。

 聖書であっても、たとえ文章は少なくとも、また、たとえ同時代同地域に理解する方は少なくとも、その文章が真実なる神仏の生命の光明を体現していたが故に、数多くの文化文明の基礎となりえたのであろうと思う。ソクラテスの御言葉も、釈尊の御言葉も、孔老の御言葉も同様である。一なる神仏の生命、神仏と名づけられる以前の純粋実在の生命が、その中に脈々と波打っており、それらのロゴスが、大宇宙を貫く永遠普遍のロゴスと軌を一にしていたが故に、大宇宙のありとしあらゆる生命の輪廻する時間の流れにおいて、その本来の価値を顕現、維持、発展させていったといえるのであろうと思う。

 哲学思想であっても、特に念頭に置いておかなければならないことは、自ら主体的に思索する真理の質が、永遠普遍の真理の質と軌を一にするか否かということである。しかし、真に自己の内奥に穿ち入れば、必ず、自己の個性的生命を通して、永遠普遍の神仏の生命と邂逅することが出来るように、人間は創られているのである。それ故に、限りなく個性的なるものは、同時に限りなく普遍的なるものとなるのであり、限りなく普遍的なるものが、限りなく個性的に独自の法を顕現しているのが、本来唯一無二の人格であるといえるのである。

 故に、真なる自由とは、自己内奥の法則に従うことであるという、一見逆説的なことが真理となるのである。真なる自由とは、自己の内に永遠普遍に実在している法則を発見し、この法則を、自己の人生を通して実現することにあるといえるのである。

 人間であっても、偉大なる哲人の知性は限りなく叡智的であり、美しいのであるから、その人間を創り、生かしめている造物主たる神の知性が、どれだけ叡智的であり、美しいかということは想像に難くない。ただ、そこで大切なことは、全ての生命が、この根源的実在の一部、根源的叡智の一部としてあるということであり、その限りにおいて、我々人間の根源的な知性の営み、叡智的営みが、根源的実在たる神仏の創造的実現になっているということである。

 このようにして、信仰心と、人間の理性、自己信頼、信念というものの根底にある真理を考えてゆけばゆく程に、それらのものが、本来一つのものの両側面に過ぎないのであるということが悟得されてくるのである。その時に、人間は、真の意味で自己の固有尊厳に限りない価値を認めることが出来、他者の固有尊厳に限りなき価値を認めることが出来、同時に、神仏の生命の普遍的価値を認め、一なるものが多なるものとして形をとって人格的に顕れている、様々な神仏の生命の価値を礼拝することが出来るのであろう。

 自己が真に生かされてあり、生きた価値あり、生きた意義ありと想えるのは、自己の根底に宇宙の真理を発見し、それを創造的に実現しえた時なのである。哲学、宗教、芸術の本源的価値がここにあるのではないかと思う。自己が真の自己となり、真の自己を、自己らしく、その根底から必然性をもって実現顕現してゆく時期、そこに真なる自由が生まれ、真なる価値が生まれ、それに伴う法悦的幸福が生まれてゆくのである。



〔 光明祈念歌 〕
自己の奥
奥なる自己の
根底の
法則こそが
自己創造す
(貴)


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