「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「大宇宙の根本理念(神仏)が個性的真理として応化することについて」



 自己信頼と内なる神仏について探究する一方において、我々は、人間の弱さと内なる闇についても探究しておかなければならないであろう。そもそも、何故に、神仏の大切さ、神仏への信仰心の大切さが重視されるかというと、この地上世界において、そもそも煩悩具足の人間が、迷いながら、本来の天上世界の光明を求めて生きているという現実がある訳である。

 人間の内なる煩悩の自覚、内なる迷いの自覚は、決して宗教的境地、哲学的境地において、自己を低下させるものではない。むしろ、真に向上深化させる契機である。内なる煩悩があればある程に、より煩悩が滅却された清浄なる境地を求めるのであり、内なる迷いがある程に、より不動不変なる智慧に満たされた境地を求めるのである。

 神仏とは、本来清浄にして、不動不変なる智慧そのものの顕れである。また、慈悲という観点からみれば、こうした煩悩ある迷える衆生を救い導かんとする慈悲の塊である。故に、人間は、自己の現実を自覚すればする程に、より理想的な状態を求めて、神仏への信仰心を立てるのである。

 しかし、ここで論述しておきたいことは、たとえ外なる神仏が、お経であるとか、天啓であるとかによって顕れていても、それをきっかけにして、自己を真に救うのは、本来の自己なのであるという点である。これは、お経や天啓を軽視しているのではない。それらの聖典を尊ぶことは前提とされているのである。

 しかし、それらの聖典を通して、最終的に、自己を、本来の解脱、本来の智慧、本来の慈悲と愛へと導くのは、内なる神仏であるということなのである。内なる神仏の光明が真に湧出してゆく時、現象としての自己の煩悩や迷いが消えてゆくのである。表面的な自我が否定されて、本来の自己と本来の世界が顕現してゆくのである。

 哲学思想であっても同じである。外なる哲学思想を学び尊重することは前提として、しかし、それを契機として、真に自己を智慧ある不動の状態にするのは、本来の叡智的自己、本来の理念的自己の発露であるのである。本来の叡智の光明は、汲めども尽きぬ永遠不滅、永遠普遍の自己である。宇宙の根本と一体となった、宇宙の根本たる神仏の生命の発露となる自己である。

 こうした本来の自己に回帰する時に、光を灯せば闇が自然に消えるように、煩悩も迷いも自然に消えてゆくのである。罪も穢れも自然に消えてゆくのである。何故ならば、本来の実在たる神仏は、闇も煩悩も迷いも罪も穢れも、真には創られなかったからなのである。それらは全て、実在ではないからである。

 自我の執着のある方から観れば存在するものも、無我なる実在としての神仏の側からみれば、全ての全ては真善美聖の顕れであるということが自覚されてくるからである。そこにあるのは、もはや弱き自己などではない。ありてあるものたる実在と一体となった、真に剛き自己のみがあるのであり、本来の実在世界、本来の神仏の創られた世界が、そこに展開しているといえるのである。

 故に、真なる哲学は、真なる宗教と同根であり、同質の働きをするものである。同じく、根本理念たる神仏を探究するものであるといえるのであり、もっといえば、自己の内奥に、根本理念たる神仏を発見させるものであるといえるのである。

 故に、本来の形而上学とは、自己の根本を探究することが、同時に世界の根本を探究することになり、宇宙の根本を探究することになるようなものなのであって、自己の実在、自己の人生哲学を離れてあるものではないのである。あくまでも、自己の実人生に即してあるものであり、その内奥に必然的に自覚されるものなのである。

 例えば、神道の天之御中主神(天御中主神)という概念について考えてみたいと思う。天御中主神とは、本来の形而上学上の実在として考えられることが多い宇宙の根本的実在であり、根本理念そのものである。しかし、時として、人格神、天御中主神として応化して顕れることもあるのである。その本質は、神の智慧と慈悲の顕現である。
その状態、神人合一の境地にあっては、もはや、自己のどこからどこまでが自分であって、自己のどこからどこまでが天御中主神であるということは区別出来ない。本来一つであって、分かれていた生命が本来一つの状態となって、働きをなして顕れているということなのである。

 そして、その人格神としての天御中主神の内奥は、宇宙の根本である天之御中主神(天御中主神)と一本に結ばれているのである。その本質は、真理の光明にあるといえるのである。本来、広大無辺なる天之御中主神(天御中主神)として無限定の真理の実在が、人格神として応化し、自由自在に人格として限定された真理、多として顕れた一なる真理を顕現されているのである。

 その預言的真理は、それぞれが多なる真理として人格的光明を放ち、それぞれの具体的人生を照らす真理となっていきながら、その真髄においては、全てが一なる中心真理、純粋真理に帰一し、大宇宙の根本たる、人類に限定される以前の大真理、天之御中主神(天御中主神)そのものに統合されているのである。そして、大宇宙の根本は、様々に名は異なるけれども同一の大真理であるから、同時に、仏教的にいえば根本仏そのものであり、哲学的にいえば、根本理念たる「一者」そのものであるといえるのである。古代インド宗教におけるアートマンとブラフマンの合一という叡智的真髄も同趣旨である。

 天御中主神は、仏教でいえば仏陀、キリスト教でいえばキリスト、哲学でいえば理念(イデア)そのものである。それらを別々の名で分けることも、一つの分別知にすぎない。真髄における理念知、実相知においては、一なるものである。それこそ、統合的認識である。

 このような、例えば、天御中主神を自己の内に発見し、天御中主神と一体となってゆかんとすることこそ、真なる信仰心であり、そのために聖なるものに対して慎み、畏み、自我我欲を滅却し、自我を否定することによって、真なる自己、天御中主神としての自己を肯定してゆくことこそ、真なる自己信頼の大道となってゆくことである。それこそ、神道的真理の真髄にあるものであり、本来の祭りごとの真髄にあるものであろう。

 禅においても、真なる見性とは、自己の内に仏陀を発見することである。そして、内なる仏陀の光明によって、外なる仏の世界、根本仏たる仏の生命の展開する世界を観ずることである。本来如来、本来仏陀の自己に参入することが真実儀である。

 このように、天御中主神と一体となり、仏陀と一体となることを大悟という。故に、真なる信仰心と真なる自己信頼は、本来一致するものなのである。その時には、本来無き弱さも、本来無き闇も無くなる。有限なる人間が、無限なる本来の神仏の生命の一部として新生してゆくのである。

 確かに、内なる実相の自覚、内なる天御中主神の自覚、内なる仏陀の自覚には、深浅高下、様々な顕現度合があるであろう。それ故に、神性仏性と言いかえてもよいかもしれない。しかし、根本において、人格の内奥に天御中主神は実在し、釈尊(仏陀)は実在し、キリストは実在するのである。そして、大宇宙の根本理念へと通じているのであるという自覚はもっておかなければならない。それが生命の本来の姿であるからである。全ては、一なる生命として、あらゆる大生命とつながっているからである。

 究極の自己実現とは、本来の天御中主神の生命、本来の釈迦(仏陀)の生命、本来のキリストの生命、本来の理念(イデア)そのものの生命を、唯一無二なる自己の個性的生命を通して地上に顕わすことである。哲学も思想も芸術も宗教も、本源的理念は一つである。大生命の個性的顕現である。

 大生命は、個性的に限定され、相互作用し、相互に限定しながら、相互に可能性を開拓することによって、かけがえのない生命の華、理念の華、真理の華を咲かせてゆく。それ故に、同質の大生命を起源とするものであっても、その地上的顕現は様々に異なることが多く、異なりながら、その本質を一なるものとしていることが多いのである。

 形において多様であっても、その実において、一なるものである。形において、たとえ矛盾するものであっても、より高次なる視点からみれば、一なる生命の止揚統合されているものである。これもまた、一種の絶対矛盾的自己同一の関係にあるといえる。それ故に、本来の真理的生命は広大無辺であり、あらゆるかけがえのない個性的真理を、絶対無の如く、生かし、育み、包み込んで、一大体系となしているのである。




〔 光明祈念歌 〕
根本の
命を相互
 限定し
 個性の華を
地に育まん
(貴)



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