「哲学随想」
Japanese Dream Realization



「自己信頼と内なる神仏について」



 自己信頼と内なる神仏について考察してゆきたいと思う。通常の宗教認識においては、神仏というものは、自らの外に求められることが多い。自己の外に、または、自己とは別に、自己をはるかに超えた神、或いは仏というもの、哲学的にいえば理念(イデア)というものを設定し、それに対して恭しく敬い、信仰の念を抱くという形である。この宗教感情自体は尊いものである。信仰心自体は、宗教の根幹となるものであって、肯定されるものであるという立場は、前提に考えているのである。

 しかし、一方において、自己の内奥に神仏を見出してゆくという思想、哲学、芸術、宗教もあることは真実である。自己の内奥に神仏を見出してゆくということは、何も自我に執われてゆくということではない。むしろ、その思惟の過程は、自我を虚しくすることによって、真に自他一体になり、自己の真なる根底に穿ち入ることによって、「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識する」という、ヘーゲルのいう絶対知に近づいてゆく道なのである。

 ヘーゲルは、自己意識の段階では、自他は別個のものとして認識されているが、理性の段階においては、自他一体に認識され、自他一体の根底に、理念としての神が認識されるとしているが、基本的に、私がいう自己信頼とは、理性による理念(神)を認識する立場のことをいっているのである。故に、この絶対知のことを、理念知、実在知、或る時には実相知と呼んでいるのである。

 仏教においては、般若の智慧が絶対知に近い概念であるといえるであろう。知識の識の段階においては、自他を分けて考えること、主観と客観を分けて考えることが中心であるのに対し、般若の立場においては、自他を一体のものとして考え、主客の合一を考え、根底実在(神仏)の顕れとして観ずるようになってゆくのである。それ故に、われという意識や、わがものという意識が没し、自然に、全ての全てが神仏の生命の現れ、一なる生命の顕現であると観じられてくるのである。西田幾多郎が、「善の研究」等で、純粋経験の奥に実在を観じ、実在の一大体系としての神仏を観じるのも、このような絶対知の立場、般若の立場と同趣旨のものであるともいえるであろう。

 光明思想家(唯神実相哲学の宗教家)の谷口雅春が、現象は無い、現象の我も現象の他者も無い、あるのは実相のみである、神と神の御心の展開した世界のみであると、実相覚によって本当の世界が認識される、としているのも、知識(自己意識)によって認識される現象知の立場から、実相知(理性)の立場に立脚した認識の転換のことを述べているのであろう。現に、谷口雅春は、理念という概念を、実相という概念にそのまま置きかえて表現している所からも、唯神実相哲学の境地も、ヘーゲルの絶対知の境地と趣を一にしているといえるであろう。理念(実相)とは、神の御心そのものであり、仏の御心そのものであり、真理そのものである。

 こうした絶対知(実在知、実相知)に基づく自己信頼こそが、本論で述べている真なる自己信頼ということの本義であって、それは、自我に基づく薄っぺらな自信とは異なるものである。自我の知識的認識の基に立てられた自信は、聖書の言われるような砂上の楼閣であるといえるであろう。自我を超えた絶対知としての理性の上に立てられた自己信頼は、神の国そのものである。なぜならば、神の御心の展開せる世界であるからである。その意味において、ヘーゲル哲学は、真なる自己信頼の哲学であって、「精神現象学」等は、本来神の子である人間が、本物の理性に到達して、神と一体となる哲学であるといえるであろう。

 自己信頼と内なる神という課題で念頭に浮かぶのは、エマソンの「自己信頼」のエセーであり、彼の哲学思想の全体系を貫く根本思想である。エマソンは、思想家としての自己が確立する以前は、キリスト教神学をハーバード大学院で修めた牧師であった。しかし、内なる神という思想が成熟し、古今東西を貫く、より普遍的で永遠的で多様なる表情をもつ神という思想に目覚められてゆくにつれて、牧師の職を辞し、独自の思想を展開されてゆくようになるのである。

 エマソンは、キリスト教の内にある真理を尊重し、キリスト教の狭義の神を尊重しながらも、より広い真理、より多様なる真理、より自己に内在する神を求めて、己が精神を飛翔させていったのである。彼のエセーは、詩的文学的に語られているものの、その本質は、深い意味で知の世界、叡智の世界である。エマソンが、自然や精神について論ずる時、彼の自我は、より大いなるもの(オーバーソウル)に埋没し、より大いなるものの叡智的直観に基づいて、様々な真理を思惟し、論述しているのである。このように、内なる神への旅は、無限なる神への旅であり、無限なる神に向けての理念知としての思惟は、自己と神仏を一体化させてゆくものである。

 先程、仏教の般若について述べたが、真なる般若とは、仏へと到る智慧のことであり、内なる仏を顕現することである。仏教の根本は、万人が仏性を備えていて本来仏になることが出来、仏になることをどこまでも目差してゆくものである。その意味において、仏は決して一人ではなく、ましてや釈尊のみではない。真なる般若の顕現の数だけ仏があり、実際に、仏典には、様々な仏が登場してくる。

 特に、臨済禅や無門関の世界においては、外なる仏に執われてもならないと説かれている。釈尊、弥勒未来仏にも執われず、真に自己内在の仏に目覚めることの大切さ、そして、広大なる真理の世界、無一物中無尽蔵、融通無碍なる真理の世界に目覚めることの大切さが述べられており、そこには、真に自由闊達な悟りの世界が展開しているといえるのである。

 「真理を探究してゆくとはいかなることであるのか」という哲学的公案ともいえるテーマも、ある意味においては、禅的な色あいを持つ哲学随想であるといえるかもしれない。禅的な一転語から、様々なる哲学随想の新たなる機が生まれ、自由自在なる思索が始まってゆくのである。

 自己信頼とは、自己内在の神仏の生命、神仏の真理を照見せよ、見性せよ、ということでもあろう。そして、永遠普遍なる不動の大地に立って、随所に主となり、真理そのものと一体となって、真理を照見してゆくという、かくあるべき姿であろう。

 哲学的大悟の証は、自由自在なる精神の発露となって現れる。真に無我なる、無相にして無限相の神仏の生命の実現として現れてゆくものである。その意味において、信仰心を尊重しながら、信仰心に縛られることなく、よくその本義を悟得体現し、神仏の御心なる理念を多種多様に現わしてゆくという所に、本領が伺えるのである。




〔 光明祈念歌 〕
信頼す
なる自己は
 神仏の
 生命の自由
自在の躍動
(貴)



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