「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「信仰と理性について哲学的視点から考える」



 信仰と理性について考えたい。これは、無限のテーマであって、考えても考えてもその奥があるものである。理性的営みとは、主として、思惟するということである。プラトンにあっては、真実在たるイデア(理念)は、思惟によって認識されるものであるとされた。一方、カントにあっては、理性による思惟によっては、イデア(理念)は考えられるにすぎないのであって、認識されるものではないとされている。しかし、両者とも、その哲学体系の全体において、理念を神とし、その存在を確信されていることは間違いのないことである。その意味において、両者とも、理念(神)に対する信仰はある訳である。ただ、理念(神)に対する関わり方が異なるだけである。

 カントは、「実践理性批判」において、まさしく、信仰に場所をあけるためにその書をつづられたといってよいであろう。その意味において、カントは、理念(神)を理性によって認識したのではなくて、信仰によって確信されたのである。ただ、その信仰へと到るプロセスが、通常の宗教者に比べて、思惟によって随分と綿密に推論されているのである。その意味において、カントにおける神は、盲信や狂信から遠いものである。いわば、理性的信仰とでもいうべきものなのである。形而上学的に考えて、道徳的善と幸福が一致するという最高善のためには、神の実在が必要不可欠なものであるとされたのである。

 しかし、ここでいう神とは、キリスト教的な啓示を与える神とは本質を一なるものとしながらも、さらに、人格を超えて、真理の個性を超えて、より永遠普遍なるものである。カントのいう永遠普遍の道徳律としての真理と、キリスト教における啓示的真理とは、全く同一のものとはいえないであろう。世界には、キリスト教だけではなく、仏教や儒教や道教や神道など、様々な道徳的真理があるが、それらの多様性を肯定しながらも、同時に超越したものが、真なる永遠普遍の道徳律であり、真理そのもの、純粋真理そのものであろう。こうした推論、思惟は、本来理性によってなされるものである。故に、理性的思惟は、通常の宗教的真理の枠、特定の宗教宗派的真理の枠を超えて、より永遠普遍なるものへと向かわせるのである。

 カントは、永遠普遍の道徳律の実在は、理性の事実そのものであるが故に、否定しがたく、確信出来るものであるとされているが、それ自体、いわば知的直観に基づく信仰的なものといえなくもないものである。その意味において、信仰と理性というものは、厳密なカントの哲学体系の中においても、信仰即理性、理性即信仰というべき形で現れているといえる。

 また、キリスト教等の宗教的真理に対して、他律の道徳ではなくて、自律の道徳を真なる自由とする点においても、独自の信仰と理性の態度が示されているといえよう。キリスト教の宗教的真理であれ、仏教の宗教的真理であれ、外にあるものによって自らを律してゆくことが通常の宗教者の信仰態度であるが、カントを主とする自律的倫理学にあっては、自己の内に、叡智界(理念界)よりの定言的命令があり、その道徳律に従うことが真なる自由であり、人格の尊厳を形成するものであるとされているのである。

 確かに、叡智界(理念界)とは、神の世界の一部とでもいうべきものであるから、その意味において、カントにおいても、神への信仰と理性というものは両立している訳である。そして、どこまでも永遠普遍の道徳律を探究してゆく姿勢のある限り、キリスト教や仏教等の宗教的真理は永遠普遍の道徳律の一端であるから、別に宗教的真理を否定する訳でもないのであって、むしろ、真髄においては一致するのである。

 このように、カントに代表されるように、信仰だけではなく、理性を重視する立場は、現代における主流の倫理的価値観であるばかりではなく、哲学者思想家にとっては、非常に大切な部分であるといえるのである。一般に、マインドコントロール(洗脳)による危険が様々な宗教について指摘されるのも、基本的には、主体的な理性、批判的な理性、個性的な理性の大切さを見失ってしまうからであり、あまりにも知性が受け身になり、理性の働きが狭くなったり、萎縮してしまう結果、本来の精神の自由自在さ、自由闊達さを見失ってしまうからであろうと思われる。

 その意味において、理性による精神の解放が、同時に神仏への飛翔となり、永遠普遍の道徳律、真理(理念)への飛翔となってゆくような方向において本来の信仰と理性を考えてゆくことが、特に、近代以降、新時代において、大切になっていることではないかと思うのである。

 その観点に立って、プラトンの哲学体系を観てみると、非常に伸び伸びとした精神の自由が現れているように感ずるのである。そして、限りなく理性的な精神態度が、魂を天上世界へと飛翔させ、地上的束縛から解放しながら、同時に、神(理念、イデア)に対する敬虔の念を抱かせている所に、哲学思想の原点、倫理道徳芸術、そして、宗教の原点があるように思えるのである。

 近代哲学においても、カントの精神を継承発展させたヘーゲルは、理念(イデア)を絶対知によって認識出来るとされている。その過程は、主として思惟であり、概念的思考である。その点において、多少知識的な色合いは異なるものの、本質的には、ヘーゲルは限りなくプラトン的であり、プラトンは限りなくヘーゲル的である。

 そして、近代以降、神や魂の不死や自由などの理念を見失った唯物論哲学が流行した後、再び時代は、新時代に向けて、本来の理念哲学、イデア哲学の方向へ向かわんとしているように観えるし、向かわなければならないであろう。何故ならば、信仰も理性も共に、人間の尊厳を何よりも回復させてゆく源であるからである。そして、哲学の本質、哲学の使命の最たるものは、理性の復権が、同時に神への信仰の復権になるものであるからである。古代においても、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、プロティノス等は、いずれも永遠普遍なる神(実在)に対する深い信仰に根付いていたものともいえる。

 近代以降の日本の高峰である西田幾多郎の哲学、和辻哲郎の哲学、暁鳥敏の哲学等においても、その本質は変わるものではない。特に、西田幾多郎は、哲学の終局は宗教であると述べられている。西田幾多郎は、その処女作にして原点である「善の研究」においても、明瞭に神の本質について語られており、知と愛についても語られている。

 根本実在とは、基本的に理念(イデア)と軌を一にするものであって、善もまた、根本実在から自然に導かれるものである。根本実在の顕れ、実現こそが善である。神(根本実在)をいかに認識するかという点においては、カントの限界を、主客合一した意識現象を純粋経験とすることによって乗り超え、根本実在を、いわば知的直観に基づく思惟、思惟に基づく知的直観によって、認識出来るとされている。その意味において、プラトンのイデア論を批判的に継承したアリストテレスに、その思想的立場が似ているといえよう。

 西田幾多郎もまた、理性的に神仏(根本実在)について述べておられ、その一方において、禅の叡智的直観に基づく見性の内容、哲学的大悟の内容が、「善の研究」の内には既につづられているといえよう。また、キリスト教的信仰や、浄土真宗的信心の本質についても道破されているように思う。このように、信仰と理性は、現代へと到る日本哲学の潮流の中においても、見事に止揚されているといえるのである。

 これより後、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、プロティノスと続き、カント、ヘーゲル、そして西田幾多郎へと続いた信仰と理性の伝統精神をさらにルネサンスし、新時代の理念哲学を築いてゆくことこそ、日本哲学を現代日本に現わし、同時に世界哲学へと昇華してゆく大道であるといえるであろう。




〔 光明祈念歌 〕
信ずるは
深き 山奥
登ること
 理性の光
灯明にして
(貴)



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