「哲学随想」
Japanese Dream Realization



 「真理を探究してゆくとはどういうことであるか」



 人生の中に顕れている真理は、本来、秘められているものである。観えない方にとっては全く観えないものであり、観える方にとっては如実に発見されるものである。その意味において、人生において、日々真理を発見してゆかなくてはならない。日々、真理を発見してゆくことが、真なる生きる意味でもあるということなのである。発見された真理こそが、その方が本来何者であるかということを語っているのである。

 故に、日々において発見した真理を紙につづってゆけばよいのである。そして、その内容を自己観照してゆけばよいのである。そうすれば、真に自己を認識することが出来、真理としての自己、思想としての自己を確認することが出来るのである。その真理の連続こそが、生命の流転する姿であり、思想の連続こそが、生命の輝く姿そのものであるといえるのである。

 真理は、本来秘められているが故に、発見され、顕現することによって本来の光を顕わすのである。思想は、本来秘められているが故に、発見されることによって、世を照らす光明となるのである。故に、日々思索し、真理を発見し、思想を創造しつづけてゆくことは、世の中に対して光を供給しつづけてゆくことであり、哲学者としての愛そのものであるといえるのである。

 真理とは、本来、形に執われないものである。真理とは、本来、人に属さないものである。それ故に、真理とは、本来、永遠普遍のものであり、全人類に、全生命に共有されるべきものなのである。誰の真理というものでもなく、誰のための真理であるというものでもないのである。全ての生命の真理であり、全ての生命のための真理なのである。

 本来の神とは真理であり、本来の仏もまた真理である。真理が顕れれば、それが神となり、仏となるのである。それ故に、厳密には、真理が特定の名前に執われないように、神仏も特定の名前に執われるようなものではないのである。その意味で、名前というものは方便にすぎない。名前に執われれば、それもまた、真理を限定してしまうことにもなるのである。

 故に、特定の名前をもって真理を限定してしまい、誰彼によって発見された真理は真理であるが、誰彼によって発見された真理は真理ではないということはないのである。真理が真理であれば、本来名前を超越するのであって、真理そのものは、誰彼によって所有されているようなものではないのである。

 真理とは、本来的な実在であり、永遠普遍のものであるから、地球を超えて、時代を超えて、万人の根底に常にあるものなのである。それ故に、真理とは、常に変わらないものなのである。真理には歴史的変転はないのである。真理は、各々の歴史に内在し、顕現してゆくものであるが、歴史を超越しているものなのである。それ故に、古典というものは真理を顕わしているが故に、時代を超えて尊いものであるといえるのである。

 例えば、釈尊によって発見された真理が全ての真理かといえばそうではない。あくまでも真理の一部が発見されたにすぎないのである。真理とは、釈尊という限定を超えて、仏教という限定を超えて実在するものなのである。それ故に、様々な哲人が必要なのであり、様々な哲人が、それぞれの個性に応じて顕現された真理を通して、より真理の全貌を知ることが出来るのである。

 真理は広大無辺である。同様に、本来の神も、本来仏も広大無辺である。広大無辺なものを広大無辺なものとして尊重してゆくことが、本来の真理に近づいてゆく道であり、本来の仏に近づいてゆく道である。

 心を決して狭いものに限定してしまってはならない。心の自己限定を限りなく外してゆくことが、本来の真理に飛翔してゆく道である。様々な偏見や先入観というものを除いてゆくことも、真理を発見してゆく道である。真理とは、本来、大きく、広く、高く、深いものである。その真理に限定をかけてしまっているのは、人間の自我にすぎないのである。

 真理とは、あちらこちらに顕現されているものであり、その一つ一つがそれぞれ異なった輝きを放ってみえるのは、真理がそれだけ様々な個性的人格を超越しているからである。それ故に、様々な個性的人格によって体現された真理を、それぞれに真理の全てであると考えて、自己の真理発見の可能性を狭めてしまってはならないのである。
本来の哲学者は、より広い真理の世界を探究してゆかなくてはならない。本来の思想家は、より広い真理の世界を探究してゆかなくてはならない。様々な個性によって顕わされた真理をそれぞれに尊重しながらも、その個性的限定を常に超えて、物事を観じてゆこうとしなければならない。

 例えば、釈尊を通して顕れた真理を尊重しながらも、その限定をさらに超えてゆかなくてはならない。キリストを通して顕れた真理を尊重しながらも、その限定をさらに超えてゆかなくてはならない。帰依の心や信仰心は大切であるけれども、同時に、そのような精神態度をもって自己限定をなしてはならない。

 究極においては、本来の真理に帰依し、本来の実在を信仰してゆかなくてはならない。それが、自己という個性的生命が地上に幸えた意義でもある。あらゆる束縛を超えて、様々なものの中により多くの真理を発見してゆかなくてはならない。より広い真理を発見してゆかなくてはならない。

 本来の真理は、自己を自由にならしめるものなのである。広い、高い、深い世界へと飛翔させてゆくものなのである。何者にも執われず、真理を探究してゆくことこそ、本来の哲学者の天命であり、本来の思想家の天命であり、宗教家であっても、本来の天命なのである。

 真理が本来、永遠普遍のものであり、全ての生命に共有されており、特定の人々の名前に帰属するものではなく、それらを超越しているものであること、そして、一人一人の生命の根底に実在しているものであるということを前提とする真理探究のあり方こそが、全世界、全宇宙に共通の基盤を与え、真理において大調和に導く考え方である。
本来の真理において、全ての方が譲る心をもちながら、本来の真理において各々の個性を輝かせてゆくことが大切である。常に永遠普遍の真理が自己の内奥に実在していることを信頼し、他者の内奥に実在していることを信頼し、日々、真理を発見しつづけてゆくことが、真理を愛しつづけてゆくことであり、真理を通して人々を愛してゆくことである。

 真理によって、より純化され、より普遍化され、より永遠化され、その過程で自然に個性的であることこそが、真なる大愛を顕現しつづけてゆく道なのである。



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