理念情報

 「瞑 想 録」
Japanese Dream Realization



「『一即多』の真理と弁証法的『統合』の真理について」



 鈴木大拙は、本格的に、華厳経の中に実在している「哲理」について解説されているが、西田幾多郎の根本哲学である「一即多」の「哲理」も、華厳経の根本哲理である。

 「一」と「多」では、形式論理学においては、絶対的に矛盾するものであるが、弁証法論理学においては「統合」され、「一即多」として、絶対矛盾の自己同一の定理どおりに、矛盾が統一されるものである。

 例えば、竜安寺の石庭において、一見、ランダム(無造作)に置かれた十五個の石の背後に、「一本の木」の実在が認識されるのであるならば、そこには、「一即多」の哲理が秘められているといえるのである。これを、「視覚認識学」の立場から、「ハイブリッド対象変換」を通して分析する試みもなされているが、ここでいう「視覚認識」についても、さらに奥深く探究しておく必要があると思われる。

 前述したように、仏教哲学においては、「六官」の内、「眼」官において対象とされるものを「色」と称し、その「色」が本来「無」いことを、「空相」と呼ぶ訳であるから、「色」は、そのまま「一」なる空相であるといえるのである。

 すなわち、「一」なる空相を観ずる「般若」の立場から認識すれば、ありとしあらゆる、一見、ランダム(無造作)に置かれた十五個の石も、「一」なる空相を、「幻の木」として「黙示」しているといえるのである。

 すなわち、ここでいう「般若」の認識論というものは、いわば、「理念(イデア)認識論」(般若認識論)であって、「視覚認識論」の内奥に「実在」している、万人の心の内に内在されている「理性」「仏性」「神性」の光によって「照見」される世界であるといえるのである。



〔 光明祈念歌 〕
一本の
幻の木こそ
空相なり
涅槃へ誘う
矛盾する石
(貴)



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